規律化に抗する主体が立ち上がるダイナミズム:「現代日本の規律化と社会運動」及川英二郎

現代日本の規律化と社会運動: ジェンダーと産報・生協・水俣

現代の社会では、あからさまな権力による力づくの支配というよりは、規律を個人の意識に内面化させ、その結果として他人と「同じように働く」(本書、p2)ことが当然のように仕向けられていく権力のあり方がみられる。このような権力は、ミシェル・フーコーによって「生ー権力」と名づけられ、個人の規律化を促進するとともに、対象となる個人が属する集団に対しても、繁殖、寿命、公衆衛生、居住など生死の様々な側面から包括的に管理するように働く。

歴史家である著者は、日本現代史を対象として、「生-権力」が強力に作用して人々の規律化と管理を促進する一方で、個人の強烈な意思によって突き動かされて「生ー権力」に抗う主体が立ち上がるダイナミズムを探求してきた。本書ではこれまでの研究の集大成として、戦中の産業報国運動、戦後の生協運動、高度成長期以降の胎児性水俣病患者の運動がとりあげられ、詳しく分析されている。

規律化のメカニズムは、例えば「(健康な大人の)男性」という標準が示され普遍化される思考の働きを伴っている。規律化の過程で、人々の間にある様々な違いは、こうした標準によって不可視なものとなり、あるいは標準ではないもの、「ああなってはならない者」として外側で可視化される。本来は「誰も他人と同じようには働けない」(p37)はずなのに。

ここで明らかにされていることは、たとえ戦中の総力戦体制のような規律化が強力におし進められている局面であっても、現場で女性の主体的な役割がクローズアップされることで公(職場)/私(家庭)の分離が攪乱され、さらには戦後の生協運動における女性(主婦)の活動の伏線になっていくようなダイナミズムである。当時の支配層も一枚岩ではなく、戦局の悪化と現場活動の発展ととともに、自由主義派と国家社会主義派の対立が顕在化してくる。

こうした抵抗のダイナミズムは、戦後になり政治社会体制の変動期にあってさらに活性化し、生協運動における「労働組合に従属せず、食堂経営や「生活文化活動」を通して地域にダイレクトに参入する主婦たちの主体的な意思」(p207)となって顕われる。政治ではいわゆる55年体制が成立し高度経済成長期が始まる前、未整備な国家体制の「余白」(p187)において様々な発展の可能性がみられた局面であったようにも思う。

しかし高度経済成長期に入っても規律化に抗う主体化は、1970年代以降に胎児性水俣病患者が活発に展開した運動において、また別の姿となって顕われる。彼らの運動は、「ああなってはならない者」とされる側こそが普遍化される、自立と依存の共存において構想される「新しい共同性」(p316)の可能性を示している。

今日において「生ー権力」はいつでもどこでも作動しており、私たちはつい最近も「コロナ禍による人間関係のあからさまな「分断」」(p334)としてその強力な作用を経験した。一方で、これに抗する人々の強烈な意思の働きもそこかしこでみられたのである。個人的には、コロナ禍を経て、清濁含め人々の意思の働きがあちらこちらで騒がしく盛り上がっていることこそ、あるべき民主主義の社会なのではないかと考えるようになった。本書をはじめとして、現代史の様々な局面において顕われるこうしたダイナミズムを分析した成果が、今後さらに届けられることを期待したい。

複雑な大気海洋システムへの飽くなき挑戦:「地球温暖化はなぜ起こるのか」真鍋淑郎、アンソニー・Jr・ブロッコリー

地球温暖化はなぜ起こるのか 気候モデルで探る 過去・現在・未来の地球 (ブルーバックス)

本書は2021年に、「複雑な物理システムの理解への貢献」(本書、p272)に対してノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎氏が、共著者のブロッコリー氏とともに、これまでの仕事についてまとめて書いたものだ。

今から70年近く前の1958年、真鍋氏は、米国で新しい研究所(地球流体力学研究所)を立ち上げていたスマゴリンスキーから誘われて研究所のチームに加わった。その頃までに米国では、地球の大気循環をモデルによる計算で表現(シミュレーション)する試みがはじまっており、真鍋氏はこれに水循環を加える仕事に携わった。こうして1960年代には最初の大気大循環シミュレーションモデルが完成し、やがて海洋大循環モデルと結合させることで、最初の地球の気候変動予測モデルが完成することになる。真鍋氏はその流れを先頭に立って推進した研究者である。

その最初の成果として真鍋氏は、大気の鉛直分布を比較的簡明な一次元モデルでシミュレーションした(Manabe and Strickler 1964)。これこそ、大気の温室効果のメカニズムを現実の大気分布に即してはじめて定量的に示した成果であり、ノーベル賞の受賞理由にあるとおり複雑な物理システムへの理解に迫る重要な結果を得ることとなった。鉛直の一次元のモデルだけで、観測された大気の分布を見事に再現している様子(p59、図3.4)は本当に素晴らしいと思う。

本書で真鍋氏が心を砕いたのは、地表も大気もなぜ温暖化するかという根幹部分の説明であり、これを端的に述べている第一章から読みごたえがある。これにめげず、真鍋氏以前の研究を述べる第二章と、真鍋氏による1次元モデルの結果を述べている第三章まで読むとさらに理解が深まるように思う。

まずもって、対流圏の大気は二酸化炭素や水蒸気などによる長波放射の射出と吸収により、冷却されている(p58、図3.3)、という事実を理解することが肝要である。その裏返しで、対流圏はその上層の成層圏と下層の地表を加熱している。

二酸化炭素が増えれば長波放射の射出と吸収はともに増えるが、対流圏では地上に近いほど気温が高いので、(絶対温度の四乗に比例して)吸収と射出の増加は地上に近いほど大きく、上空ほど小さくなる。結果として地表はより加熱され、成層圏はより冷却される。加熱された地表から大気が対流してさらに熱を運ぶ。その結果、気温も上昇する。このような対流圏の気温上昇と成層圏の気温低下は、ここ数十年で実際に観測される事実となった。

真鍋氏をはじめとする初期の研究者たちが直面したのは、二酸化炭素の濃度変化に対してどれくらい平均気温が変化するかという「気候感度」(第6章)の不確実性であった。この問題に取り組むため、気候モデルは過去の気候変化をどれくらい再現できるかという研究にも使われるようになった。現在に至るまで気候感度の不確実性は必ずしも解消されたとはいえないが、真鍋氏らの30年前の予測結果は今日の気候変化をおおむね予測することに成功している(Stouffer and Manabe 2017)。

真鍋氏の真骨頂は、複雑な気候システムを可能な限り簡明なモデルで表現し、様々な角度からモデルシミュレーションを行って分析しメカニズムの理解を進めることにあり、本書ではこれまでの研究の集大成として、それが十二分に示されているといえる。

八千万人の信者:「ザイム真理教」森永卓郎

ザイム真理教

本書は、単年度で政府の歳入と歳出の差(基礎的財政収支プライマリーバランス)を均衡させるべきだという極端な財政均衡主義を信じることを、「ザイム真理教」と呼び、徹底的に批判している。

しかし、国民の多くは「ザイム真理教」を信じていると思われる。最近のある世論調査では、消費税の引き下げに賛成する人の割合は35%である。ということは、実に65%=8000万人の信者がいると思われるのだ。

景気が悪くなって失業が増えるような場合、民間がお金を使わなくなって需要が不足するので、政府が国債を発行し、財政赤字を増やして需要を拡大する。これはごく標準的なマクロ経済政策であり、その意味で短期的には財政均衡主義は間違っている。

さらに、長期的にデフレにおちいった場合は、発行した国債中央銀行に買い上げてもらい、ただちに償還することなく借りかえをくりかえし、長期的に保有してもらうようにすれば財政を均衡させる必要はない。この場合のリスクは通貨(国債)の膨張によるインフレだが、デフレからインフレに転換させることがそもそもの目標なのだから、マイルドなインフレに移行するぶんにはまったく問題ない。

それでは、マイルドなインフレに移行するまでどれくらい財政を拡大できるか。単純にはインフレ率を見ればよいと思われるが、名目GDP成長率が国債の長期利率を上回っている間は拡大できる。現状ではまったく問題ない。

政府が使いみちを決めて財政支出をしても、無駄遣いばかり増えて意味がないという意見があるが、財政支出を減税にまわせば、市場を経由した民間の活動において効率的にお金が使われることになるだろう。

しかしこのような理解が広がらないのは、財政均衡主義が宗教的信念といえるほど強くいきわたっているからだと本書は言う。そのとおりなのだろうが、個人的には、官僚よりもむしろ与党の有力政治家たちの信念が固いのではないかとおもう。現状の、政権交代せず同じ与党が続くような硬直的な体制では、年功序列的に偉くなった有力政治家たちの信念を変えるのは難しい。やはり政権交代可能で財政均衡主義にごだわらない新たな野党勢力が成長していき、政権を担当する人間が変わらなければ、財政均衡主義的な政策はこのまま続いていくように思う。大きな政策の方向付けを変える政治の役割は、とても大事だ。

言葉は身体から切り離せない!?:「言語の本質」今井むつみ・秋田喜美

言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書)

グイグイ(ひっぱる)、ノソノソ(歩く)、などの「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作り出せる語」(p6、本書)である「オノマトペ」(p vii)を手がかりに、言葉の成り立ちと本質に迫るたいへん意欲的な本である。

前半ではオノマトペの実証的な分析について丁寧に述べられていて、それ自体興味深く読める。後半の第5章「言語の進化」あたりから一気に、書名になっている言語の本質にまで記述が加速度的に展開されて、最後まで目が離せなくなる。

本書の冒頭で、オノマトペが従来言われてきた言語の大原則をおおよそ満たすものであることが示されている。本書の最後で、著者たちが考える改訂版というべき言語の大原則が示されているが、従来の原則ともっとも異なる独創的なところは、言語が「身体的であること」(p259)だ。

著者たちが言うとおり、「言語学では伝統的に、ことばに身体とのつながりはなく、その必要もないという考えが主流だった。」(p123)  本書は、身体的な起源をもつ具象的なオノマトペから、抽象的・恣意的な言語体系に発展するメカニズムとして、知識が知識を呼んで成長し続けるというブートストラッピング・サイクルを提案している。

オノマトペの段階で得られた語彙が身体的に直感できるという「アイコン性」は、ブートストラッピング・サイクルにおいて語彙が増え言葉の恣意性・体系化がいったん進むと弱まっていく。ここで興味深いのが、体系化された言葉のうち語感が似ている言葉どうしがまとめられて(母語話者にとって)身体的な直感を感じさせるようになる「二次的アイコン性」(p167)の発生である。だから言語は、人間が使い手である限りはどんなに抽象化しても、完全に恣意的な体系になることは無く、身体的な感覚を残し続けるのだ。

ブートストラッピング・サイクルにおいて語彙とその使い方を増やすときに行う推論として、もっとも重要なものは「仮説形成推論(アブダクション abduction)」(p209)である。論理として正しい「演繹推論」は他の霊長類も行うことができるが、アブダクション推論は人間のみが十分に行えるという指摘はとても面白い。考えてみれば科学の発展は、最初に直感的に新概念(万有引力など)を提示し検証は後からついてくるというパターンが多い。そもそも本書の主な主張からして、基本的にアブダクション推論に基づいているのだ。ほかの霊長類と異なり、人間が生存圏を大きく拡大してきた歴史的経緯も、アブダクションによる新たな活動場所の推論に基づいているように思う。

言語、もっと言えばそれによって表現される人間の意識が、身体と分かちがたく結びついているという考察は、既にいくつかのSF小説でもとりあげられている。例えばグレッグ・イーガンの「エキストラ」や、野尻抱助の「ふわふわの泉」では、意識と身体の切り離せない関係について印象的な話が出てくる。ずっと気になっていたが、本書を読んで得心がいくようになった。

いま話題になっている生成系のAIは、身体感覚による言語の獲得に基づいてはいないが、言語を使いこなしているように見える。本書が示した言語のなりたちについての様々な仮説は十分に検証可能に思われ、今後新たな発展が出てくると思うが、AIとの関わりという視点でも様々な発展が生まれることを期待したい。

江戸の地形を歩く:「江戸切絵図貼交屏風」辻邦生

江戸切絵図貼交屏風

本作の主人公、浮世絵師の歌川貞芳は、常に描き続けようとする絵師である。「この世のすべてのものが、一つ一つ、かけがえない存在(もの)だということ」(本書文庫版、p202)を感じ、そこここに満ち溢れる「生命の勢」(p83)を写しとりたいからである。作者の辻邦生じしんが、文章を書くことによって同様のことを行おうとしていたのであり、晩年まで創作意欲はきわめて旺盛であった。本作では、幕藩体制の揺らぎに翻弄される人間像をも「生命の勢」の現れとして描いているところが興味深い。

本作では、主人公の意欲的な創作活動を反映して、江戸の街をよく歩きまわっている。読んでいると、江戸=東京の地が平坦ではなく、起伏に富んでいる様子がわかってきて楽しい。「湯島妻恋坂心中異聞」では、神田山周辺で歩き回っている。

神田山周辺の標高図 https://en-gb.topographic-map.com/map-tkt3l/Tokyo/

標高図を見るとわかるように、神田山の南端を切り開いて作った人工の渓谷を神田川が流れている。興味がわいたので、実際に歩き回ってみた。

水道橋から昌平橋にいたる神田川の夏草の茂る深い渓谷のうねり」(p80)

 

神田明神から深い木立に覆われた女坂の石段を下りる」(p85)

「(妻恋)坂を登りつめた右手に稲荷神社があり」(p85)

銀杏に囲まれた小さな祠が建っていた」(p85)

文章の記述とかなり一致しているようで、小説の登場人物たちが実在してこのあたりを歩きまわっていたかと思われるくらいだ。

網野善彦が見た、経済主義と反経済主義:「日本社会の歴史 下」網野善彦

日本社会の歴史 (岩波新書)

本書は、歴史家網野善彦が、「日本」国ではなく、日本列島に生じた人間社会の歴史を様々な面から記述しようと試みた意欲作である。

「日本」は、古代において日本列島各地にあった地方政権のうちヤマト王権が勢力を拡大し、701年、大宝律令の制定とともに対外的に名乗った国号である。当時、北海道、東北北半部、沖縄以南は異なる文化、社会であった。

著者はその後、対外征服を進め律令制を維持発展させようとする「日本国」の悪戦苦闘とともに、次第に律令制が形骸化していく様子を詳しく描いている。大きくみればその過程は、「日本国」中心部以外の地域社会が自立し、戦国大名に代表されるような様々な「地域小国家」が分立しそれぞれに発展していく過程でもあった。

本書では、かつて著者が「無縁・公界・楽」(1978年)で展開した中世の自由についての理想的な捉え方は見られなくなり、「無縁・公界・楽」は、戦国期に至るまでに発展した村町の自治や、寺社勢力や商業活動の活発化を示す言葉となっている(下巻、p80)。

本書(1997年)は、その参考文献にあるように、1980-90年代に進められた中世史の新たな展開(藤木久志、勝俣鎮夫らの仕事)を踏まえての記述になっているようだ。

興味深いのは、様々な自治組織を統合した地域小国家が、幕藩体制としてさらに大きく統合された江戸時代の描写である。それまでに新たに得られた知見を反映させて、江戸時代の経済と社会の発展を生き生きと描いている。「公界」など様々な自治組織の自由な活動を圧殺して成立した武家統一政権の時代、というこれまでの網野善彦の主張とは大違いの印象だ。

そして、二つの政治潮流、「農本主義」と「重商主義」のせめぎあいとして江戸時代を描く視点を示している。

ここで言う「重商主義」とは、西欧史での「重商主義」=自国の産業を保護して輸出を進め、世界中で一定量しかない富を可能な限り蓄積する、ということではなく、様々な分野で自由な経済活動を進め富を増やしていく、という考え方のようにみえる。西欧史ではむしろ「重商主義」に対抗し、やがて経済学を生み出すことになる「重農主義」に近いと思うのでややこしくなる。

片や「農本主義」は、土地とそこで生産活動を行う農民を基盤として、生産される富の量は一定としてそれを政府が効率的に収集するために統制を強める考え方である。

重商主義」(経済主義と読みかえたい)と、「農本主義」(反経済主義)の視点で政治潮流をとらえる考え方は、けっこう射程が広いと思う。現代の日本でも適用できそうだ。網野善彦がのこした仕事の新たな可能性を見出したような気持ちがして嬉しい。

未来!未来!未来!:「虚妄の成果主義」高橋伸夫

虚妄の成果主義

1990年代のバブル崩壊以降、日本の大手企業の多くでは年功制の賃金制度が見直され、成果主義型の賃金制度が採用されることになった。

本書は、<1>これまでの仕事の成果を何らかの客観的な手法で評価する、あるいは、<2>そうした成果に応じた賃金体系で動機づけを行う制度を、成果主義であると定義する。そして、成果主義は仕事への動機づけとして機能せず、企業経営にとって有害であるとする。

なぜなら、<1>仕事の成果を表現する客観的な指標は厳密には存在せず、<2>人を積極的に仕事に動機づけるのは、賃金のような外的な報酬ではなく、仕事内容そのものであり、仕事内容を自ら決定して、効果的な変化を生み出したいという欲求であるからだ。このことは、講演内容をまとめた第1章を読めば端的にわかるようになっているが、第3章にある経営科学としての実証的な議論が興味深い。

賃金のような外的な報酬は、仕事への不満足をとり除き仕事を継続させる動機づけとして働くのであり、そのため日本型の年功賃金制は、ライフサイクルに応じた生活保障として機能していた。ところがバブル崩壊後に生じ長く続いたデフレ不況によって賃金は毎年上昇する(当時「ベースアップ」と呼ばれていた)ことがなくなり、年功賃金制を維持することが不可能になった。今後、需要駆動の持続的なマイルドインフレを実現できれば、事態は変化していくものと思われる。

本書のもっとも興味深い点は、自分の仕事の将来の見通しが明るいものであれば、現状の職務に満足している必要すらないことを示していることである。まさに、「未来! 未来! 未来!」(本書、p182)なのである。読むべきは、歴史的絶望に支配されたマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」よりも、未来への希望の匂いに満ちたトーマス・ペインの「コモン・センス」なのである。企業経営でも未来の見通しは重要であるが、国がマクロ経済政策を正しく実行して、経済全体の見通しを明るいものにしていくことの重要性も痛感する。