最新のデータで日本中世史をアップデート:「荘園」伊藤俊一

荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで (中公新書 2662)

日本史における「荘園」は、古代末期に発生しその後の中世社会の特徴を端的に示す重要な土地制度である。本書は、従来のような古文書の解読によって得られた古典的な知見に加え、考古学による発掘の知見や古気候のデータなど最新のデータでアップデートされた荘園の通史である。読みごたえのある充実した内容だ。

本書を読むと、ひとくちに「荘園」といっても800年におよぶ歴史があり、時代によって実態は様々に異なることがわかる。最初の荘園、「初期荘園」は、律令制における口分田の不足を補うために開墾を奨励した結果生まれたものだった。その後、摂関政治の時代では、律令制の基盤であった古代からの村落の多くが消滅するとともに、「田賭」と呼ばれる農業の専門家集団などに課税の免除など優遇措置を与えつつ、農地の経営や耕地の開墾を請け負わせることが一般化する(「免田型荘園」)。院政が開始されると、特定の耕地にとどまらずある領域全体がひとつの荘園として自立し、不輸・不入の権利を得て天皇家摂関家など中央の政治勢力と直接つながるようになる。これが本書でいう「領域型荘園」であり、中世社会の到来を決定づける社会的変化である。

本書の特色のひとつは、最新の古気候データを用いて荘園との関係を論じているところである。本書では時代ごとに分けてデータを示しているが、全期間を通じた気候変化のインパクトを知りたくて、NOAAのデータサイトから同じ気温データをとってきて全期間で見てみた(図1)。

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図1 PAGES 2k データ 800-1600年

これを見ると、古代村落が消滅し領域的荘園が確立するまでの間はわりと安定した気候で、荘園制度の確立に適した気候状態が続いたことがわかる。鎌倉幕府が成立し荘園公領制が完成したあと、寛喜の飢饉に襲われたが、東の幕府も西の朝廷も協調して新制を発布し、真摯に対応して事態を乗り切った。

このあたりから、本書で言う「鎌倉後期の転換」がやってきて、職の一円化や中国からの銅銭の大量輸入を通じた貨幣流通の進展によって荘園の経営は大きな変化を遂げる。さらに荘園での集村化が進行し農民たちの自治が発達する。15世紀に起こった寛正の飢饉は深刻な打撃を荘園に与えたが、この危機を乗りこえるべく農民たちの自治はさらに強まり、惣村が成立して荘園制度は終わりを迎える。

本書を読むと荘園は、文明の先進地である中央から技術や資本を周辺地域に伝えつつ、それぞれの地域で自由な経営を促して生産力を向上させる役割を担ったように思える。荘園の長い歴史の中で各地域の住民たちは自らの力量を高め、技術や資本を自前で調達できるようになり、次の時代に来る「徳川の平和」を迎えることになるのだ。

(おまけ)

図2を見ると次に来る「徳川の平和」においては比較的穏やかな気候が続いたようだ。このような気候条件は平和の実現とともに、この間進行した新田大開発の助けになったものと想像する。しかし19世紀に入ると天保の飢饉などをひきおこす低温期がやってきて体制は不安定化し、やがて明治維新を迎えるように見える。

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図2 PAGES 2k データ 800-1989年



マクロありきのミクロ経済政策:「「日本型格差社会」からの脱却」 岩田規久男

「日本型格差社会」からの脱却 (光文社新書)

日銀副総裁の退任以降、活発な出版活動を続けている著者が、今取り組んでいるという「資本主義論」のうち現代日本の格差問題を論じた部分を出版したのが本書である。大前提としてデフレ脱却というマクロ経済環境の問題解決ありきというのが基本中の基本である。日銀に入り大規模金融緩和政策に関わってきたなかでの政治家たちとの様々なやりとりの記述が興味深い。そうした中でついにマクロ経済政策への理解が政権担当者までいきわたったことが改めてわかる。一方で、どんなに説明を尽くしても絶対に理解しない政治家たちがいたことも事実として述べられている。最近の与党党首選挙でも、マクロ経済政策を理解している候補と、「インフレ率は経済成長の結果」と言いつつミクロ的な経済政策ばかりを並べる候補が出てきており、この点について論戦が深められるとよいと思う。

財政と金融のマクロ経済政策を順当に実施し、2%以上のインフレ率を安定的に実現することを前提としたうえで、今起こっている経済格差の問題を解決するためには、どのようなミクロ経済政策が望ましいかという論点が本書の最も大事な内容である。今起こっている経済格差の問題は77ページの図表1-17にはっきり表われているように、ここ20年で年収350万円以下の所得者層が大幅に増加していることである。これより高い所得者層は富裕層まで含めほぼ減少している。つまり「日本は信じられないくらい「貧しい国」になってしまったのである」(11ぺージ)。その直接的な理由は、高齢化による年金生活者と低賃金の非正規雇用者の増加であり、20年以上続いたデフレが背景にある。

マクロ経済環境を安定させ潜在GDPを十全に実現したとすれば、次に行うべきミクロ経済政策の目標は潜在GDPを底上げすることである。本書では、1) 中小企業保護政策から中小企業育成政策への転換、2) 労働契約と保育の規制緩和による正規・非正規雇用の区別の撤廃と女性の雇用促進、3) 年金の積立式への移行、について主に説明している。これにより労働力がより生産性の高い分野に効率的に配分されやすくなり、女性や高齢者がもっと労働しやすくなる。そして何よりも、正規・非正規の賃金格差や年金の世代間格差解消につながる。この点、当面積みあがった年金債務の解消のために新型相続税を使うというのは良い考えのように思える。

本書ではこれまでマクロ経済政策の啓蒙に注力していた著者が(本来のご専門?の)ミクロ経済政策に踏み込んで説明しており、著者の規制緩和に対する考え方が本人の具体的経験をもとに随所にちりばめられていて興味深く読まされた。本来あるべきリベラル(自由主義)な立場というものがよくわかる。

ひとつ気になるのが、本書では医療体制や健康保険のあり方については触れられていなかったことだ。財政の点からいっても医療体制や健康保険に関わる費用は膨大であるしもはや年金と同様に持続可能性を考えるべき状態になっている。消費税増税に隠れているが、健康保険料の度重なる値上げも日々の生活に直結する問題だと思う。また最近の騒動で明らかになったように、硬直的な医療体制のもとでは自由な経済活動が阻害され生産性向上どころか潜在GDPすら実現できなくなってしまうのだ。この点、本書のようなリベラルな立場から構想されるミクロ経済政策はどのようになるのだろうか。

経済成長が後押ししたトルコの民主化:「トルコ現代史」 今井宏平

1923年の共和国建国以来、伝統的なイスラム教とは一線を画して世俗主義と共和主義、人民主義などの建国6原則のもと、近代化を進めてきたトルコの道のりはたびたび内戦に近い状態に見舞われる、苦難に満ちたものであった。本書は、建国以来、直近の軍事クーデター未遂(2016年)に至るまでのトルコの政治と社会を、建国6原則がどのように継承発展されてきたかという視点から分析している。

建国以来の最初の大きな対外危機は第二次世界大戦であるが、トルコは巧妙な外交政策で中立を保ち、最終的には勝者の連合国に加わって国家の生き残りを達成した。第二代大統領イスメット・イノニュをはじめとする政治指導者たちの力量に負うところが大きく、この点において破滅した大日本帝国と対照的である。イノニュは初代大統領のケマルに比べて知名度は低いが、第二次世界大戦後に複数政党制を実現して民主化を進めるなどトルコ史における存在感は大きい。

しかしトルコの政治は、激しいテロの応酬にまでエスカレートする政治勢力同士の対立やクルド問題が絡まりあい混迷をきわめる。不安定が頂点に達すると、建国6原則を堅持するとする軍部がクーデタをおこして政治をリセットするような状況が1990年代まで続く。

混乱を立て直し安定を実現したのが21世紀に入って政権を掌握した公正発展党である。公正発展党は親イスラムであるがそれは庶民の敬虔なイスラム教信仰を尊重するという点で反エリート主義という傾向が強いようにみえる。この点では世俗主義にこだわる軍部や共和人民党はエリート主義であり「敬虔にイスラム教を信仰しながら豊かな暮らしをしたい」というような庶民の願いをすくい取っていたとはいえない。

実際、公正発展党が政権を掌握してからトルコの経済成長はおおむね順調であり、住宅や保険など社会政策も拡充されてきた。マクロ経済政策については2002年以降インフレ率が安定していることが注目される。本書では言及されていないようだが、2002年以降、インフレ目標政策が導入されて効果を発揮しているのだ。経済の安定と成長に後押しされた公正発展党の統治は民衆の支持を保ち、結果として2016年の軍事クーデタの試みを潰えさせた。

経済成長したといっても所得水準や産業構造からみてまだまだ「中進国の罠」から脱却できているとはいえないしクルド問題やシリア内戦の影響など問題はあるが、21世紀に入り躍進した新興国の典型として今後も注目していきたい。この点では中国との類似性も感じられる。またアメリカの中東撤退の流れは今後も続くと思うと、中東の地域大国としてのトルコの存在感はさらに大きくなることだろう。

ところでトルコの(公正発展党の)政治家たちは2002年以降マクロ経済政策を理解して政治の安定に活用してきたと言えそうだが、日本でも2013年以降ようやくそうなりつつある。最近の与党の党首選挙における政策提案ではマクロ経済政策がきちんと論点になっていて、その傾向はいよいよ明らかになってきたように思える。

インテリジェンスと正規軍:「現代ロシアの軍事戦略」 小泉悠

2014年のクリミア併合以来、ロシア軍の活動が活発になっているように思える。クリミア半島にいきなり黒覆面の兵士たちが現れ、あれよあれよという間に住民投票でロシアにクリミアが併合されてしまった。クリミア併合以来、ウクライナ紛争、シリアへの軍事介入、2020年に起きたアゼルバイジャンアルメニア戦争への介入など、ロシア軍の活動を目にする機会は数多い。この間、ロシア軍の活動は従来の意味での純軍事的な範疇にとどまらず、サイバー攻撃や、インターネットを通じた世論誘導、民間軍事会社の活用など、ハイブリッド戦争の様相を呈している。

一連のロシア軍の目立った活動の詳細とその背景を、多くの一次文献を逐次参照しながら丁寧に解説してくれるのが本書である。興味深いのは、ロシアの軍事行動の背景にあるのは、ロシアの強さというよりは弱さであり、冷戦終結以来、安全保障のための勢力範囲を縮小させ続けたロシアの強い危機感だということである。ロシアは経済的には大国といえないが、安全保障のために自ら国際秩序を作りだしていこうとする意思と実力において依然として大国であり続けている。

注目すべきところは、ハイブリッドな戦争の状況下であってもロシア軍は依然として正規軍の軍事力を効果的に使っているところである。ウクライナ紛争においても最終的に停戦合意に至ったのはロシア正規軍が投入されてウクライナ東部の分立を決定づけたからであり、アゼルバイジャンアルメニア戦争の停戦も、ロシア正規軍が間に入って交戦勢力の切り離しを確定したことによってはじめて実効的になった。

ここでハイブリッドな戦争と言っているのは従来であればインテリジェンス(諜報戦・心理戦)の活動領域と言われていたところが多く、昔も今もその重要性は変わらない。軍事力を背景にインテリジェンス活動を行って有利な状況を作り出し、最終的にその状況を確定させるために必要であれば正規軍の軍事力を実際に使うというロシア軍の正統的な戦略というものがはっきり見えてくる。

「弱い」ロシアの軍事戦略には、「弱い」日本もみならうべきところが数多くあるのではないか。今後、日本の周辺で軍事的な危機が起こる可能性はゼロではない。そのときに備え、インテリジェンス能力を強化し、また「正規軍」の力もいざというときに効果的に使うことも想定して強化しておくことが必要なのだろう。

亡国の経済学に抗して:「脱GHQ史観の経済学」田中秀臣

 

 新型コロナウィルス感染症への対応は、国内ではワクチン接種の本格化とともに次の段階に移ろうとしている。本書で述べられているように、「フェーズ1:戦争中」から「フェーズ2:戦後の回復期」への移行が見えてきているのだ。

本書は今回の「戦後」を見とおすにあたって、前回の「戦後」であった旧連合国(GHQ)による占領期の経済思想が今日の「緊縮主義」の淵源のひとつとなっており、今回の「戦後」にも悪しき影響を与えかねないと言う。「過去の「経済思想」の奴隷であることが、われわれの経済問題や政策を考える際の大きな足かせになっている」(本書、p24)からだ。

「緊縮主義」とは、「不況や経済危機であるにもかかわらず政府の積極的な景気対策を否定し、財政の緊縮や金融緩和の否定を採用する考え」(p26)である。この背景にはさらに、日本が構造的な問題をかかえており、通常の(積極的な)景気対策では到底解決できないという「亡国の経済学」(p80)という発想がある。「亡国の経済学」は、根本的な解決策として国民経済が亡国的な厳しい環境で鍛えられムダをなくしスリムになることを求めてくる(「清算主義」)。

戦前から占領期の日本では深刻化する人口増が、現代の日本では少子高齢化と人口減が、それぞれ亡国的な構造問題として認識され、「清算主義」ー>「緊縮主義」の主張に勢いを与えている。

本書は、占領期にあの石橋湛山が蔵相として「石橋財政」によって日本経済の再生を進め当時の「清算主義」と対峙したと述べており興味深い。石橋財政の流れは湛山自身の公職追放のあと結局ドッジラインに象徴される「清算主義」によって止められてしまう。結局このとき経済が好転するためには、朝鮮戦争の特需という幸運を待たなければならなかった。

今回の「戦後」についてもやはり同じように「清算主義」との対峙が待ち受けていると思う。すでに「フェーズ1:戦争中」のために行った財政出動に対し、緊縮主義的な批判が起こっている。しかし本書が言うように、ここで間違えずにさらに「フェーズ2:戦後の回復期」のための財政金融政策を総動員できれば、今直面している「100年に1度」の経済危機を乗りこえることができるだろう。

経営の身体、コミュニケーションの身体:「ゲンロン戦記」東浩紀

1990年代に若き俊英の批評家として颯爽と言論界に登場し華々しく活動してきた著者が、10年前に起業してからこれまでのことを綴っている。 現在の経営体制に落ち着くまでに起こった様々なことが書かれているが、多くの気づきに満ちていて興味深く読まされる。

会社の経営にあたっては権限と責任が一致することがとても大事で、これが無いと確かな経営の「身体」を形作ることができない。とくに経理は身体の血管ともいうべき根幹である。「身体」はとても具体的なものであり、経理書類は電子ファイルではなく、紙に印刷し物理的な対象にして書棚に積み上げないと経営の「身体」として把握することはできないのである。

この会社は、書籍の出版、オンライン・オフライントークの開催などあらゆる手段を尽くして言論の場を創り出すことを目的としている。ここで創り出される言論は、多くの参加者が見たいものを見ようとしかしない普通の言論を、コミュニケーションの「誤配」を通じて変えていく=「啓蒙する」ことを目的としている。

コミュニケーションの「誤配」をひきおこすのは、なによりも言論の場に物理的に集まる参加者の「身体」を通じた密なコミュニケーションである。この会社が体現するこのような価値観は、清潔なオンラインコミュニケーションを良しとするコロナ禍での「新たな生活様式」とは真っ向からぶつかるものである。

「新たな生活様式」はそもそも「身体」とあいいれるものなのか。本書が投げかける問いは、自分自身もこれまでなんとなく思ってきた違和感を「身体」という言葉によって明るみに出してくれたように思う。

遺伝子の呪縛:「女と男 なぜわかりあえないのか」橘玲

 ここ二十年ほどで男女の性的ふるまいについての進化心理学的な理解は急速に進んだ、と本書の著者は言う。ヒトが進化した環境は恒常的な飢餓状態にあり、そのなかで子孫を増やしていくためにオスは「とてつもなく強い性欲」を、メスは「とてつもなく強い子供への愛着」(共感力)をもつように遺伝子的に設計された(第6章)。というか、そのような遺伝子をもつ個体のみが子孫を残すことができたのだ。

このため、性的な関心のもち方はオス・メスで大きく異なり、オスが単純に「ポルノのユートピア」を夢見る一方、メスは複雑な「ロマンスのユートピア」を夢見ている(第9章)、「メスにとってのエロスとは、アルファから愛されること」である。アルファとは最上位のオスであり最も生存可能性を高める遺伝子をもっているとみなされる。典型的なロマンス小説のストーリーは、アルファとベータ(第二順位のオス)をめぐってゆれうごいたヒロインが最終的にはベータを拒否してアルファに選ばれるというものであり、ネットでよくいわれている、メスの「負の性欲」と同じメカニズムがはたらいている。

オスは精子を方々にばらまいて自分の遺伝子を残すコストが小さく、メスにとって自分の遺伝子を残すために受精して妊娠し子供を産んで育てるコストは大きい。この違いからアルファのオスにとって最適な戦略は「浮気」であり、メスにとって最適な戦略はアルファオスの遺伝子を得てベータオスに育児の資源を提供してもらう「托卵」となる(第13章)。そうはいっても、この戦略ばかりが幅をきかせるようになると、(アルファになれない)大半のオスは育児資源を提供しなくなるだろうから、メスの大半は「純愛」という戦略をとることになるだろう。

本書では、ヒトはもともと(チンパンジーボノボのように)乱婚であったが、やがて一夫一妻に移行した、という説を紹介している(第20章)。ヒトの身体的な特徴は乱婚の痕跡をのこしているが、脳容量の急激な拡大によって未熟児として生まれざるを得なくなり、メスはオスの長期的な育児への資源投入を必要とするようになって、一夫一妻に進化してきた、というのだ。しかし一方でヒトの文化には厳密な一夫一妻はそれほどみられず一夫多妻への志向が広範に観察されており、まだ謎がのこされている。

本書で驚くべき説として紹介されているのが、ヒトのメスの心理的な性的興奮と身体的な性的興奮は必ずしも一致しないという話だ(第4章)。したがって身体的な性的興奮がすなわちメスの性的同意とはいえなくなる。ヒトのメスの性欲の問題はメス自身の問題というよりはむしろ、多分にパートナーとなるオスとの関係性の問題なのだ(第8章)。

ヒトのオスとメスの性欲のあり方はとても異なっている。そう考えると、男性向けと女性向けの風俗的サービスのあり方が違ってくるのは当然で、その意味でこれまで女性向け風俗の世界を開拓してきた柾木寛氏の活動が現在、「疑似恋愛的な活動よりも、整体師としての改善施術のほうが性にあっています」(下記、p264)となっていることが興味深い。女性向け風俗を担うセラピストが、技術系セラピストと、心を扱うのが得意なセラピストに大別されるというのは、性的興奮のあり方が心理的なものと身体的なものとで分離していることと関係しているのだろうと思う。