すっきりした思い:「日本近世の起源」 渡辺京二

だが一言ですますならば、十六世紀という大転形期のあの流血と騒乱は、もともと徳川の平和をあがなうためのものだったと答えるしかあるまい。」(日本近世の起源、p316)

日本の中世史には昔から興味があり、1980年代以降、網野善彦がもてはやされ、彼の一般向けの本はわりと熱心に読んだほうである。網野の「日本の歴史をよみなおす」では、江戸時代の社会は、「農本主義」的な潮流を代表する織田・豊臣・徳川の路線が、「重商主義」的な潮流を規制して武士の専制支配を確立した結果である、というようなことが書かれていたと思う。なんとなく腑におちないような感じもしていたが、最近読んだ渡辺京二の「日本近世の起源」は、1990年代以降の中世・近世史学の成果をもとに、そのような考え方を否定し、それ以前の中世とは明らかに異なる、日本の近世としての江戸時代の意味をきわめて明快に教えてくれる好著だった。

15世紀以降、「惣村」と呼ばれるような村や町の自治が進み、中世を通して一貫していた「自力救済」を惣村の構成員同士では否定するような潮流が生まれたが、そうした村や町同士はお互いに抗争が絶えなかった。戦国大名はそのような村町を統合し、領域内部の自力救済を否定し領内に平和をもたらそうとしたが、戦国大名同士の抗争は激化していた。結局、日本全体に平和をもたらすためには、大名も含めあらゆる共同体同士の「自力救済」を否定するほかはなく、豊臣秀吉の「刀狩」令は農民の武装解除というよりは、武力による自力での紛争解決を否定する平和令であった。こうした「豊臣の平和」を受け継ぎ発展させた江戸時代とは、武士が農民を抑圧して確立した専制体制などではなく、「武士」と「農民」が社会契約を結び、ある種の社会的合意のもとに作り出した、画期的な体制だったのだ。

それ(幕藩制)は、惣村を土台として生れてきた百姓の願望・欲求を、おなじく惣村を基盤として析出した新たな領主階級が、把握しなおした結果成り立った社会構成体なのである」。(日本近世の起源、p286)

至言というべきである。ここでいう「武士」と「農民」はもともと独立した社会階層ではなく、どちらも「惣村」を基盤として、戦国時代以降新たに再編成されたものだ。とりあえず「百姓」とでも呼ぶしかないような雑多な「惣村」の構成員が、江戸時代の開幕にあたって「武士」を選ぶか、「農民」を選ぶかはそれなりに自由度があったという。武士と農民の階級闘争などという考えはもともとありえないのである。

領主は領国のうちに平和を実現すべき責任があるという、十五世紀に生まれた政治思想が、十六世紀にはひろく地下衆に浸透し、戦国大名の国家理念となって、ついに秀吉の統一国家を実現し、徳川の平和として現実に実を結んだのは、村々や町々に築きあげられた共同という社会的基礎があってこそだった。徳川の平和とは村々や町々に充ち溢れた豊かな生命の光であり、そのことは徳川の世が深まるにつれて明らかとなったのである。
(日本近世の起源、p303)

しみじみその意味を噛みしめたい。