南北朝の「未発の可能性」:「南北朝時代」会田大輔

 

4世紀から6世紀にかけ、気候の寒冷化とともにユーラシア大陸では北方遊牧民が大規模な移動を始め、東(中国)西(オリエント)の農耕中心の文明におおきな影響を与える。北の遊牧起源の王朝と南の農耕起源の王朝が並び立つ南北朝の状態が東西で生じるのである。その後7世紀になって西側ではイスラム、東側では唐が南北をまとめるようなかたちで新たに広域の文明秩序を創り出す。本書は東の南北朝時代の概説書であり、南北入り乱れて激動するこの時代の様子をわかりやすく解説している。

おおきくまとめれば、4世紀は五胡十六国-南朝で北方がとくに入り乱れるが、5世紀には北魏-南朝南北朝時代、6世紀は東魏系-西魏系-南朝三国時代であると考えてよいだろう。本書では、それぞれの国どうしが周辺の国々を巻き込み、戦争を含めよく交流していた様子が描かれている。のちの統一王朝隋・唐は、南北朝の深い融合、まさに胡漢一体の王朝であることがよくわかる。

北魏から隋唐まで遊牧的要素の色濃い「拓跋国家」という言い方でまとめるというのは誇張しすぎということだろう。例えば、最初軍事的に劣勢だった西魏が強兵化していったのは、鮮卑由来の「北族」のみの軍隊から、支配地域から漢人を含めひろく徴募した「郷兵」の軍隊になっていったことが背景にあると読める。また北朝由来の隋は南朝征服後、その制度や文化をひろくとり入れた。

さらに南北朝時代を専門としてきた著者が強調することは、胡漢一体化の過程でさまざまな制度や文化が生まれその多くは後代に引き継がれなかったとしても、この時代の未発の可能性として注目されるべきということである。歴史家としての愛情のようなものを感じさせる言葉であり、印象に残った。

しかし、北朝南朝を生きた人々は、激動の時代を生き抜くために試行錯誤を重ねていたのであり、当然のことながら隋・唐に制度を伝えるために生きていたわけではない。数多の可能性のなかから、人々が選びとった道の先が隋・唐だったのである。本書を通じて、そうした人々の模索や苦闘のあとを感じ取っていただければ幸いである。」(本書、p259)

存分に感じ取らせていただきました!