西郷隆盛が主導した「合従連衡」:「日本近代史」 坂野潤治

日本近代史 (ちくま新書)

日本近代史 (ちくま新書)

渡辺京二は、元治・慶応年間(1864-1867)に西郷隆盛が主導した、倒幕から明治政府の創出に至る一連の活動を「史家たちがもって西郷の最高の政治的事績とする、元治・慶応年間の政治行動については私がここで述べる必要は何もないと思う」(維新の夢、p318)とあっさり無視している。渡辺京二の最大の関心は、西郷が幻視していた、実現したものとは異なる別の近代化の夢にあるからだ。

では歴史家は西郷の事績をどうとらえているか。坂野潤治は、明治維新からアジア・太平洋戦争直前に至る日本の政治史を対象とした「日本近代史」において、幕末の「改革」から明治維新の「革命」に対して西郷が果たした主導的役割を描いている。西郷は、鎖国の崩壊によって生じた体外危機を解決する方法論における、「攘夷」か「開国」かという改革運動の分裂を、「勤王」という旗印のもとに有力諸藩大名と諸藩の家臣たちを横断的に結合(合従連衡)させ幕府に対抗する権威と権力を創出することで乗り越えようとした。その成果が「薩長同盟」(1866年)や「薩土盟約」(1867年)であった。

渡辺京二は、「維新革命の指導において、彼には何の思想的独創があったわけではなく、彼の見るところはまた勝(海舟)・大久保(利通)らの見るところにすぎなかった」(維新の夢、p318)と手厳しい評価だが、坂野潤治は、勝も大久保も諸藩の志士の結合を軽く見ており、当初の段階では勝も大久保も幕府や藩の枠組みを乗り越えられていないとし、西郷の主導によってこそ諸藩の志士の結合が実現したとする。諸藩の志士の連携を最重要視したという意味では、文久二年(1862年)の二回目の南島流刑以来、一貫して西郷の忠誠が藩ではなく革命家兵士の死者に向けられていたという渡辺京二の主張と共鳴するものがある。