言葉は身体から切り離せない!?:「言語の本質」今井むつみ・秋田喜美

言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか (中公新書)

グイグイ(ひっぱる)、ノソノソ(歩く)、などの「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作り出せる語」(p6、本書)である「オノマトペ」(p vii)を手がかりに、言葉の成り立ちと本質に迫るたいへん意欲的な本である。

前半ではオノマトペの実証的な分析について丁寧に述べられていて、それ自体興味深く読める。後半の第5章「言語の進化」あたりから一気に、書名になっている言語の本質にまで記述が加速度的に展開されて、最後まで目が離せなくなる。

本書の冒頭で、オノマトペが従来言われてきた言語の大原則をおおよそ満たすものであることが示されている。本書の最後で、著者たちが考える改訂版というべき言語の大原則が示されているが、従来の原則ともっとも異なる独創的なところは、言語が「身体的であること」(p259)だ。

著者たちが言うとおり、「言語学では伝統的に、ことばに身体とのつながりはなく、その必要もないという考えが主流だった。」(p123)  本書は、身体的な起源をもつ具象的なオノマトペから、抽象的・恣意的な言語体系に発展するメカニズムとして、知識が知識を呼んで成長し続けるというブートストラッピング・サイクルを提案している。

オノマトペの段階で得られた語彙が身体的に直感できるという「アイコン性」は、ブートストラッピング・サイクルにおいて語彙が増え言葉の恣意性・体系化がいったん進むと弱まっていく。ここで興味深いのが、体系化された言葉のうち語感が似ている言葉どうしがまとめられて(母語話者にとって)身体的な直感を感じさせるようになる「二次的アイコン性」(p167)の発生である。だから言語は、人間が使い手である限りはどんなに抽象化しても、完全に恣意的な体系になることは無く、身体的な感覚を残し続けるのだ。

ブートストラッピング・サイクルにおいて語彙とその使い方を増やすときに行う推論として、もっとも重要なものは「仮説形成推論(アブダクション abduction)」(p209)である。論理として正しい「演繹推論」は他の霊長類も行うことができるが、アブダクション推論は人間のみが十分に行えるという指摘はとても面白い。考えてみれば科学の発展は、最初に直感的に新概念(万有引力など)を提示し検証は後からついてくるというパターンが多い。そもそも本書の主な主張からして、基本的にアブダクション推論に基づいているのだ。ほかの霊長類と異なり、人間が生存圏を大きく拡大してきた歴史的経緯も、アブダクションによる新たな活動場所の推論に基づいているように思う。

言語、もっと言えばそれによって表現される人間の意識が、身体と分かちがたく結びついているという考察は、既にいくつかのSF小説でもとりあげられている。例えばグレッグ・イーガンの「エキストラ」や、野尻抱助の「ふわふわの泉」では、意識と身体の切り離せない関係について印象的な話が出てくる。ずっと気になっていたが、本書を読んで得心がいくようになった。

いま話題になっている生成系のAIは、身体感覚による言語の獲得に基づいてはいないが、言語を使いこなしているように見える。本書が示した言語のなりたちについての様々な仮説は十分に検証可能に思われ、今後新たな発展が出てくると思うが、AIとの関わりという視点でも様々な発展が生まれることを期待したい。