哲学、文学などの人文学の発展は、継続的な訂正によって進められてきた、と著者は言う。人文学の基盤は言語であり、言語によるいかなる思想であれ訂正を受け入れる契機がある。というよりむしろ哲学の使命は、哲学の体系の訂正可能性を示すことにあるのだと本書では結論している。
共通の言語によって維持される共同体を本書では家族と呼び、家族は訂正可能性によってその姿を変えながら、維持され発展していくとする。本書の後半では、民主主義の社会を家族とみなした場合に、訂正可能性はどのように作用するのか考察されている。
ここで鍵となるのが、ルソーの思想の読解である。民主主義の基礎を論じているとされる「社会契約論」では、個々人の意思は一般意思として統合され、一般意思は個々人の意思に優越するようになる。そうなると、全体主義にみられるような一般意思の暴走を止められるのかという問題が生じるようにみえてしまう。
著者は、本来個々人は自然状態では自由に振る舞っていたが、何かのきっかけで社会を形成してしまい、一般意思はその結果として遡行的に見出される性質のものだとルソーを読み解く。さらに、ルソーの別の著作である「新エロイーズ」を読み解き、一般意思は、それをとりまく無数の小さな社会の活動を通じた終わりなき訂正の積み重ねによって、その健全さを保つとする。
小さな社会とは何か。著者はその例を、19世紀にトクヴィルがかつて米国を訪れた経験をもとに記した「アメリカの民主主義」を読み解くことによって示す。アメリカでは「とにかくいろいろな人がいろいろなことを勝手にやっている」(本書、p335)。いたるところで様々な結社が作られて、良きことも悪しきことも行われている。トクヴィルは、その状態を喧噪と呼んだ。喧噪を伴った民主主義は、「もっとも有能な政府がしばしばつくり出しえぬものをもたらす。社会全体に倦むことのない活動力、溢れるばかりの力とエネルギーを行き渡らせるのである」(p338)。
これはとにかく元気の出る認識だ。いまはインターネットを含めたいろいろな言論の場所で、あらゆる人々がそれぞれに発言し、活動している。そこは詐欺的な議論や陰謀論に満ち満ちた何でもありの場所だ。でも、互いの自由な言論による訂正可能性が担保されていれば、それで良いのだと思える。
「ぼくたちは常に誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。」(p343)