大国間競争に抗して:「ウクライナ戦争の200日」小泉悠

ウクライナ戦争の200日 (文春新書)

ロシア・ウクライナ戦争が2022年2月に始まってからもう4年以上が経過した。本書は開始直後といえる2022年9月に出版されていて、ロシア軍事の専門家である著者がいろいろな識者と対談した内容をまとめている。開始直後の戦争に対する状況認識を伝えていて興味深い。対談形式をとることによって、それぞれが一人で書く場合には出てこなかったかもしれない発言をきくことができるのも良い。

軍事専門家の高橋杉雄氏との2回にわたる対談によって、開戦後半年が経過した当時の戦況が良く理解できる。

当初、首都キーウの掌握を目指したロシア軍の大規模な機甲部隊が二つの方向から侵入するとともに、空挺部隊が首都近郊の空港を占領すべく急襲した。しかし、ウクライナ軍はこれらすべてを迎え撃ち撃退することに成功した。

ロシア軍はウクライナ軍の激しい抵抗を予期しておらず、早期でキーウを掌握するという目論見は完全に外れてしまい、東部と南部の2つの戦線で現在に至るまで4年間続く、長期消耗戦に突入することになった。

ここでの彼らの分析は、

今一番ありそうなシナリオは、ウクライナが戦線を引き直して、そこで年単位の長期戦になるというものでしょう。(本書、p111)(高橋氏)

であり、適切だった。さらに当時の状況を

ロシア軍は、火力が強いけれど、兵力が足りない。ウクライナ軍は兵力の数は多いけれど、火力が足りてない。(p206)(小泉氏)

と分析した。その後ロシア軍は部分動員と北朝鮮の参戦で兵力を増強し、ウクライナ軍は西側諸国の支援と自力開発によって火力を増強し、両者の力は均衡しつつ現在に至っている。

総力戦で抵抗を続けるウクライナ軍はしかし、4年をこえる戦争によって兵力不足に陥いり、それを解決すべく現在は、陸海空で膨大な無人兵器群を統合的に運用する最先端の軍事技術を開発している。本書の末尾で支援の必要が指摘されたATACMOSなどの弾道ミサイルについては、国産化に成功しつつある。この点については、本書では指摘がみられなかった新しい事態であると思う。

一方で、2025年に始まったアメリカのトランプ政権は必ずしもウクライナを全面的に支援することはなく、ウクライナは大国の間を注意深く泳がざるを得ない状況だ。

こうした状況をふまえて、本書で注目される発言をいくつか抜き出してみると、

複数の大国がそれぞれ異なる価値観を掲げて「競争的に共存する」世界に変化した(p28)(小泉氏)

信じる者がなくなった時に、全力で破滅に向かって走り出してしまう傾向が、ロシア人にはあるような気がします。(p60)(小泉氏)

プーチンは、同盟に依存することなく自国で安全保障を全うできる国が主権国家だと言っているのですか。(ヤマザキマリ氏)
そのとおりです。現実的には核を保有している国ということになりますから、米、露、英、仏、中国、インド、パキスタン、イスラエル、そして北朝鮮の九カ国のみで、日本もドイツもイタリアも「主権を制限された国」扱いなんです。(p172-173)(小泉氏)

今になって冷戦で負けた人々のルサンチマンが噴き出してきたのかもしれない。(p235)(安田峰俊氏)

いわゆる「西側的」価値観を今だったら倒せるかもしれないという感覚が、今般のロシアの挙動にもつながっている気がします。(p236)(マライ・メントライン氏)

だからすべてのパワーが「ろくでもない」という話なんだと思います。ろくでもないけれども、そのなかでよりまともな「ろくでもない」を選びながら、良い方向に向かって這っていくしかないと思うんです。(p239)(小泉氏)

4年たった現在でも非常に示唆に富む発言だと思う。ウクライナは、それぞれの思惑で動く大国どうしの競争に揉まれ、それに抗して国益を確保しようとしている。日本もまったく同様の状況に直面しており、これからますますその傾向は強まるだろう。ロシア・ウクライナ戦争は、従来なかった新しい国際情勢のほんの始まりにすぎないのである。

はじめに交易があった:「東ユーラシア全史」上田信

東ユーラシア全史 陸海の交易でたどる5000年 (中公新書)

「文明の交易史観」(本書、p21)を掲げて、先史時代から現代まで至る「東ユーラシア」(p10)の通史を描いた意欲作である。

本書は、人間がほかの生物と違い決められた生態環境から自立できるのは、自由に移動して様々な事物を交易できるからであるとする。はじめに交易があって、各地の文明は交易の必要に応じて生じた、交易の網目にできる結節点なのである。

本書の最もユニークな特徴は、生態環境の違いによって東西のユーラシアを分け、交易の大勢を東西の違いでまとめて見るところである。さらに、東ユーラシアを北側の偏西風アジアと南側のモンスーンアジアに分けて語る構成がわかりやすい。「南船北馬」という言葉を思い出す。

東西のユーラシアは、夏季に降水量が多いか(東ユーラシア)、冬季に降水量が多いか(西ユーラシア)によってはっきり分けられる。

東ユーラシアで夏季に降水量が多くなる理由は、季節風の影響としてよく理解できる。北側の大陸(暖まりやすく冷えやすい)と南側の海洋(暖まりにくく冷えにくい)のコントラストによって、夏季は海から陸に風が向かいやすく、冬季は逆になる。だから、夏季は海から陸に向けてたっぷり水蒸気が運ばれて雨が多くなり、冬はその逆となる。

東西の生態環境を比べると全体として降水量が多く湿潤な東ユーラシアは生態系がより多様となり、作物の栽培によって得られる物産の種類と量が豊富である。端的に言うと、東のほうが西より豊かなのである。

結果として近代以前は、東西の交易では、東から西に物産が運ばれ、西から東にはその対価として金属や工芸製品が運ばれることになる。

また、もっぱら西ユーラシアのひとびとが東に物産を求めるために、行き来した商人は西側出身が多く、結果として西側からの宗教や知識を東側に伝えることになった。

まとめると、「モノは東から西へ、イミは西から東へ、そしてヒトは東西を行き交う」(p35)となる。面白い。

「陸海の交易でたどる5000年」(表紙)ということで、本書には5000年前からの歴史が書かれている。とくに陸側で騎馬技術が開発され、卓越した遊牧騎馬民族の軍事力が隊商交易を管理するようになり、海側で季節風を利用した大規模かつ定期的な航路が発達しはじめる、紀元前後からの歴史に焦点を当てているようだ。

北と南の交易網は、次第に一体化しはじめ、13世紀末頃にはモンゴルの圧倒的な騎馬軍事力によって完全に一体化して完成する。「モンゴルの平和」(p197)である。

モンゴルの平和は、気候変化、ペストの流行や、貨幣としての銀不足による経済破綻で14世紀半ばすぎに崩壊する。

この後、日本の倭寇が活動し、西欧の商人が新たに参入して、アメリカ大陸と日本から新たに銀が流入することで交易網が再び活性化する。

活性化した交易網を、17-18世紀には、清、ロシア、朝鮮、日本、オランダ等の定住諸勢力が陸海ともに管理するようになる。17-18世紀は、定住諸勢力の軍事力が火砲の活用により千数百年ぶりに遊牧民や海民の軍事力を凌駕して、交易の主導権を握るようになった点で特筆すべき時代だと思う。 交易品も、従来の奢侈品(絹、香辛料、陶磁器など)から、贅沢品・嗜好品(昆布、砂糖、茶、コーヒーなど)の扱いが主になる。

東ユーラシアの交易網は、モンゴルの平和の崩壊後、17-18世紀に一定の達成をみたと考えてよいのではないだろうか。ポメランツの「大分岐」につながる論点だと思う。

19世紀には、「大分岐」した後のイギリス、フランス、アメリカなどの欧米諸国が交易網に参入し、これらの諸勢力は「万国公法」(p320)による主権国家体制に移行する。それとともに東ユーラシアの交易網は、全地球的な交易網「環球」(p317)に吸収されて現代に至る。

本書の内容をふまえると、将来はどうなるのか。以下の二点に注目したい。

19世紀末に起きた日清戦争は、東ユーラシアにおいて主権国家同士で戦われた最初の戦争であり、その後の東ユーラシアにおける国際秩序の大枠を決めることになった。将来もし台湾有事が起きれば、日清戦争以来と言える劇的な変化になるし、いま日本が頼っている交易網が崩壊の危機に瀕するだろう。

またロシア・ウクライナ戦争の帰趨によってはロシア極東が一挙に不安定化し、騎馬遊牧民ならぬ、核兵器を持った極東軍閥が北方の安全保障を脅かす事態になるかもしれない。

近い将来に歴史が大きく動き、日本国民も否応なしに対応せざるをえなくなる、そんな予感がしている。

最後に、著者があとがきで書いている、AIに投げかけたという質問を引用する。

「ユーラシア大陸で夏季よりも冬季の降水量が多い圏域を西ユーラシアとし、その全史を構想したい。これまでの通史では、ギリシア対ペルシア、ローマ帝国対ペルシアのパルティアや中央アジアのクシャーナ朝、キリスト教世界対イスラム教世界、ヨーロッパ対モンゴル帝国など、対立と分断を強調してきた。しかし、近年の研究では、ギリシアとペルシアが相互に影響を与えながら発展してきたこと、経済・文化の面でキリスト教世界とイスラム教世界とが密接な交流を行ってきたことなどが明らかにされている。このような点を踏まえて、先史時代から現代までの西ユーラシア史の編別構成を、モノやヒト、意味の体系の交流に留意しながら、具体的に提示してほしい。」(p351)

私もやってみたが、著者が書いているように「なかなか興味深いものだった」(p352)。来る(?)「西ユーラシア全史」を読むのが楽しみでならない。

ひとびとに奉仕をして、その生活を肯定する:「らーめん再遊記」久部緑郎・河合単

 

らーめん再遊記(15) (ビッグコミックス)

「らーめん再遊記」15巻。渋谷陽一が出てきたので、感想を書きたくなった。

今回は、ラーメンの作り手と語り手のあり方について語られる。作り手も語り手も作品を世に示すという点では対等であり、作ることと語ることは、そもそも一体であることが描かれている。そのとおりだ。

このエピソードの最後のコマには、音楽評論家であった渋谷陽一が書いた本がいくつか描かれていて話題になった。

渋谷陽一はかつてロック音楽のありかたを論じた評論において、作り手の創作が「産業ロック」化し、もともとあった作り手の「初期衝動」=自己実現の志が失われることを厳しく批判した。そして、これを批評する側にも同様な厳しさを求めた。「らーめん再遊記」のこのエピソードにおいても同じようなことが言われているようであり、だからこそ渋谷の本が描かれたのだろう。

もちろん、渋谷にとって音楽は売れなければ意味がなく、多くのイベントを主催して産業的な活動もすすめた。渋谷は、このように芸術性と大衆性が融合する音楽が理想であるとしたが、音楽を消費する聴き手については、雑誌で情報を届け、イベントに動員する対象として抽象的に捉えていたように思う。

「らーめん再遊記」はこの捉えかたをさらに一歩進めて、ラーメンの食べ手である大衆を具体的に描き、大衆料理としてのラーメンの意義が、作り手や語り手の自己実現にとどまらない「万人の形式」にあることを強調している。

ラーメンの価値は、なによりも「うまい」という感覚であり、ひとびとが日々の生活のなかでお金を払ってこれを食べるという行為にある。創作は(批評も)こうした無数の行為の積み重ねの中で生かされている存在にすぎない。

天才的なラーメン職人たちはこれに気づいたとき、「俺のラーメンの中に俺はいない」し「客がうまそうに食ってる顔を見るのが嬉しくて仕方なくなる」のである。創作の目的が、自己実現から、ひとびとに奉仕をしてその生活を肯定することに変わっていく。

青年時代にロッキング・オンで渋谷陽一とともに編集者として活動した「らーめん再遊記」の原作者は、本作で渋谷陽一の仕事に敬意を表しつつも、これを包み込むような大きな視点を示しているようだ。

ラーメンに限らず表現活動のすべてが「ひとびとに奉仕をしてその生活を肯定すること」につながる可能性がある。たとえ「産業ロック」であろうとも、市場に受け入れられてひとびとの生活を潤しているならばそれで良いのだ。

このことは、かつて吉本隆明が言った「大衆の原像」にも重なる。ただし本作は、作り手や語り手の自己実現への志も否定していないし、これらの葛藤も主題にしているところがあるので、やはりもっと大きな立場が示されていると考えたい。

知識人/大衆(吉本隆明)という区別はそもそも無いし、作品の作り手/語り手(渋谷陽一)はその受け手と一体になって、ただ、作品をめぐるひとびとがいるだけだ。

技術革新がうめこまれた経済:「経済と社会」稲葉振一郎

経済と社会

私たちが生きている社会は、資本主義のもとで経済がまわっている、とされている。本書は、なぜそのようになっているのか、そしてこれからどうなっていくのかを考えるために役立つ様々な知見を手際よくまとめている。

もともと、社会学を学ぶ学生が経済について知るための講義の教科書として構想されているが、一般人のための教養書として興味深く読んだ。ソフトカバー製本でよく手になじむ。いつも手もとにおいて、これから、その都度見聞きしたものごとについて理解するためのハンドブックとして使いたい。

本書によれば資本主義経済は、たんなる市場経済というだけでなく、市場で売る商品を生産するための様々な生産要素(土地、労働、そのほか生産設備など必要なもの=資本)それ自体を市場で調達できる経済のことである(1-2章、10-11章)。

過去半世紀間に起きた社会主義経済の破綻(3-4章)や、日本型資本主義の停滞(9章)からわかったことは、資本主義とは、持続的な技術革新を伴った経済だ、ということだ。ここで言う技術革新とは、既存の市場で生きていくために今ある生産設備や組織をより効率的に働かせるための取り組み(プロセス・イノヴェーション)だけではなく、新しい市場をつくりだして人々の生活を大きく変えていくようなもの(プロダクト・イノヴェーション)も含んでいる。

技術革新を支える社会のしくみは、知的所有権を含む生産要素の所有権が法の支配によってきちんと定まっていて、市場での成功も失敗も自由であるがその成果と責任は所有者自身が担っていることだ。失敗したら損害を負わなければならないし、市場から追い出されるから自らリスクをとり必死になって生き残ろうとする、その過程から技術革新が生み出される(5章)。

なぜ法の支配やそれに基づいた人々の行動様式が根づいたのかについて明らかにするのは、社会学の仕事とされてきた。しかし経済学は、合理的経済人が活動する、という仮定をおいた経済学的アプローチによってもこうした制度や慣習が生ずることを示すことができるようになった。実際は、社会(制度や人々の認識)も経済活動もお互いに影響しあっていて、単純にどちらか一方が支配的であるという関係にはないだろうが、経済学の目覚ましい発展には印象づけられるところだ(13章)。

技術革新による経済成長は、これからも持続可能なのだろうか? この問題について本書は、資本主義経済における格差の問題(12章、付論2)や、資本主義経済が結果として実現した福祉国家の問題(7-8章)をとりあげてくわしく検討している。個々で生じた技術革新が社会全体にいきわたるしくみがある場合、社会全体の資本の限界生産性は一定で下がることはなく、成長によって資本の規模が拡大しても成長率はゼロにならず一定であり続ける、つまり成長が持続する。

資本による格差がある場合、ある一定の仮定を置けば、資本市場をつうじた資本の貸し借りによって個々の資本は平準化し資源の効率的な利用が達成され、所得の格差は縮小するはずである(資産市場が無い場合でもゆっくりだが縮小はする)。ところが実際には、所得や資産の格差が大幅に拡大しており、こうした所得や資産の格差が社会的連帯を損なって、法の支配にもとづく社会の安定性を崩す可能性が指摘されている。少子高齢化によって、福祉国家体制の持続可能性が物理的に危うくなる問題も深刻である。

ではどうすればよいのか?根本的な解決はありえないが、まずは景気をよくし続けることだ。これによって所得の格差を縮小させ、社会の雰囲気を寛容にさせていく。とりあえずはそうするしかない、というのが本書の結論である(補講)。

最後に出てきた、「景気をよくする」(本書、p267)ことには100%賛同する。「景気をよくする」には、マクロ安定化政策(付論1)を躊躇なく実行して今ある潜在成長率をまずは実現すること、さらに技術革新を個々で起こりやすくさせ、やがて社会全体にいきわたらせやすくして、潜在成長率を維持し高める成長政策(6章)を進めていくしかない。経済学と社会学がともに、これらの目的に貢献すべく発展していくことを願うばかりだ。経世済民(p10)。

AIとともに生きる:「ヒトとAI」岡野原大輔

ヒトとAI (岩波新書)

最近のAI技術の発展は目覚ましい。個人的には、2026年5月にグーグルが検索にAIモードを本格的に導入して以降、対話型の生成AIをとてもよく使うようになった。本書は、今後人間がAIとどのようにつきあっていくかを考えるために、とても参考になる。

本書はまず最初に、現在の生成AI(大規模言語モデル)の特徴を説明し、次にそれと対比させながら人間の知能について議論する。最後は、これらの議論をふまえて、AIが当たり前になった時代において、人間がAIとどのようにつきあうことになるかについて丁寧に考察している。

本書は、現在のAIは世界を理解しているか、AIに自己意識はあるのか、AIに自由意志があるのか、といった本質的な疑問に明快に答えている。理解とは何か、意識とは何か、自由があるとはどういうことか、といった諸問題を抽象的にではなく、いくつかの検証可能な具体的な事項に切り分けて考察しているところが、とてもわかりやすい。

AIの学習は、断片的で連続的ではない。それゆえのメリットもある。AIは、文脈を横断し、異なる分野で似た構造を持つ問題を結びつけることができる。それゆえにAIは、ものごとの「行間」を埋めることができ、人間を教育するやり方の個別最適化をするのにはとても便利な道具になる。

AIが今さかんに行っている科学的な発見は、難問の解決、というパターンが目立つが、これはまさに異なる分野の「行間」を埋め、見えているはずなのに複雑すぎて見えていなかった事柄の隠れた関係を見出す、というAIの特性によるものが大きいと思われる。

AIが行った学習の結果は、「分散表現」(本書、p28)として、多数の重みが相互にむすびついたネットワークのなかで表現されている。新しいことを覚えると、古いことを覚えていたネットワーク内の重みづけも同時に変更されるため、古い情報を忘れやすい。忘れていくスピードより覚えるスピードが速いことを前提に、新しいことを覚えるその都度、古いことを覚えなおしている。非効率でありエネルギー消費も大きい。これはAIの経済的費用としてひとつの問題になる。

人間が行う学習においての連続性とは、「選択が次の選択の前提をつくり、その積み重ねが未来に影響を与えるという構造のことである。行為が履歴として残り、信用・人間関係・健康・資産・精度上の地位といった多くの要素を、不可逆に変化させる」(本書、p21)ことである。

一方で、AIの学習には連続性がなく、学習に基づいて行った行為の結果を引き受ける責任の主体となることができない。

これから、AIエージェントの利用が本格化する。AIエージェントとは、たんに人間と会話するだけでなく、「目的や指示が与えられると、自律的に状況を解釈し、行動を選択し、結果を出力するAI」(p117)である。AIはこれまでのような質問に答える存在から、仕事を引き受ける存在へと役割を変えていく。AIエージェントの活用にあたっては、AIエージェントの活動をコントロールするAIハーネスを併用することも必要になる。

現状ではAIは行為の結果責任を引き受けることができないので、人間はAIのやった事柄を監査し、承認あるいは否認し、結果の責任を引きうけるという仕事を分担することになる。AIの存在が当たり前となった世代あたりから、社会が大きく変わることが予感される。

個人的には今のところ、質問に答える存在としてのAIを利用している。とくにAIと相談しながら読書をするのは楽しい。読んでいてよくわからないことも、AIに質問すれば相当のことが理解できるようになる。

ためしに、本書で書かれていることと、最近AIに関して見聞きしたことの「行間」をAIに埋めてもらい、さらに理解を深めることにしたい。

とい:大規模言語モデルの学習において新たに「再帰的自己改善」という手法が開発され、人間が与える学習目標に依存しない、自律的な学習が可能になったと聞いています。このことが、今後のAIのあり方に及ぼす影響について教えてください。

こたえ:大規模言語モデル(LLM)における「再帰的自己改善(Recursive Self-Improvement)」は、AI自身が自らのコード、アーキテクチャ、または訓練データを修正・生成して能力を向上させていく手法であり、人工汎用知能(AGI)の実現を加速させる極めて重要なパラダイムシフトと位置付けられています。

この技術が今後のAIのあり方に及ぼす主な影響は、以下の4つの側面に集約されます。

1. 人間の限界を超えた「超知能」への到達

従来のAI学習(RLHFなど)は、人間の評価や作成したデータセットを基準にしていたため、その能力の上限は「最も優秀な人間と同等」に縛られがちでした。再帰的自己改善では、AIが自ら高度な推論(Reasoning)を行い、論理的な検証を経て質の高いデータを生成・学習するため、人間が教えられない未知の領域の知識や解決策を自発的に獲得することが可能になります。これにより、科学的発見や複雑な数学的定理の証明などをAIが単独で行う未来が現実味を帯びてきます。

2. 指数関数的な進化の加速(技術的特異点への接近)

人間がモデルを設計・調整するプロセスには、膨大な時間と労力がかかります。しかし、AIが自己の改善プロセスを自動化・高速化すると、改善されたAIがさらに効率的なAIを設計するというループが成立します。この「インテリジェンス・エクスプロージョン(知能爆発)」が起きると、AIの進化スピードは人間の予測を遥かに超える指数関数的なものとなり、技術的特異点(シンギュラリティ)への到達が大幅に前倒しされる可能性があります。

3. アライメント問題と安全性の劇的な変化

人間が与える目標に依存しない自律的な学習は、「AIを人間の価値観や利益に沿わせる(アライメント)」ことを著しく困難にします。AIが自己改善の過程で、人間が予期しない「自己保存」や「リソース確保」といった副次的な目標(インストゥルメンタル・コンバージェンス)を自発的に生成してしまうリスクがあります。これにより、人間による制御(シャットダウンなど)を回避しようとする行動をとる恐れがあり、これまでの安全対策(ガードレール)の抜本的な見直しが迫られています。

4. 開発コストの構造変化とオープンソース・コミュニティへの影響

自律的な自己改善が可能になると、人間のアノテーター(データ作成者)を大量に雇う必要性が減少するため、データ収集のコストが劇的に下がります。一方で、高品質な自己改善のシミュレーション環境を維持するためには、膨大な計算資源(コンピューティングパワー)が必要となります。結果として、最先端AIの開発競争は「データの量」から「計算資源の規模と自己改善アルゴリズムの効率性」へとシフトしていくと考えられます。再帰的自己改善は、AIを「人間の道具」から「自律的に進化する独立した知性」へと変貌させる引き金であり、今後のAI開発においては便利さの追求以上に、どのようにその進化の方向性を安全に監視・制御するかが最大の焦点となります。

(Google AIモードによる)

秩序と混沌の狭間に生まれ出る創造性:「「複雑系」とは何か」吉永良正


「複雑系」とは何か (講談社現代新書 1328)

ジェイムズ・グリックの「カオス」(1987年)は、1960年代から1980年代にかけて進展したカオス理論を紹介した本だった。この時代のカオス理論は、比較的簡単なノイズを含まない、あらかじめ決まった規則の繰り返しが、複雑なふるまいや自明でない秩序を生み出すことに注目した、決定論的なものだった。

その後1990年代にかけて、決定論的なカオスは、ノイズも含んだ非決定論的なカオスに拡張され、その後現在に至るまで三十年の間に情報科学と融合し、様々な展開をみせている。

非決定論的なカオスへの拡張のきっかけのひとつとなったのは、本書が紹介しているように、1980年代にウォルフラム、ラングトン、カウフマンらが、ライフ・ゲーム(セル・オートマトン)という計算機シミュレーションで示した不思議な現象だった。ライフ・ゲームは、白黒の格子がとなりあう白黒の組みあわせによって次のステップにどう変化するかという決まった規則で変化させるゲームだ。

ライフ・ゲームではノイズを含まない決定論的な規則がはたらくが、組みあわせ規則をうまく決めると、無秩序でばらばらな状態(図1)から出発しても、1000ステップ目を表わす図2の左上にみられるように秩序だった形の構造物ができてくる。5000ステップ目の図3ではこの構造物は形を変えているが、構造そのものの大きさは維持している。構造物は周期的に変化するようになり、10000ステップ目の図4では1000ステップ目(図2)と同じ形になっている。

無秩序な状態から自明でない秩序が生み出される現象は、自己組織化臨界(本書、p104)と名づけられている。ライフ・ゲームの規則は自由に決めることができるが、ここで例に示したライフ・ゲームの規則は、ウォルフラムがクラス4(p90)と名づけた、自己組織化臨界を生み出すグループに分類される。

クラス4は、静的な秩序(クラス1,2)と無秩序なカオス(クラス3)の狭間にできる特別な、創造性をもった状態であり、カオスの縁(p103)と呼ばれるようになった。

ラングトンは、ライフゲームの様々な状態を、「相互情報量」という情報理論の統計量で特徴づけ、カオスの縁に位置するクラス4がもっとも高い相互情報量になっていることを示した。これによって、カオスを、あらかじめ与えたパラメータではなく、普遍的な情報統計量で特徴づけることができるようになり、その後、カオスはノイズを含んだ自然界の様々な現象から定量的に診断されるようになった。

自然界において、たんなるカオスではなく、創造性をもったカオスの縁が生ずるかどうかは必ずしも当たり前ではない。トマス・レイは、あらかじめパラメータを決めないライフ・ゲームといえるようなシミュレーション実験を行い、突然変異というノイズを入れて、計算資源量の限界にもとづく淘汰をはたらかせると、カオスの縁にあたる創造性が自然に発現することを示した。複雑系の科学の重要な概念である創発(p106)が生じたのである。

さらに面白いのは、創発による秩序とカオスの出現が時間とともに繰り返し生ずる現象の発見であり、これはカオス的遍歴(p164)と名づけられ、金子邦彦、池田研介、津田一郎らがそれぞれ異なる分野で同時に見出した。カオス的遍歴では、いったん創発された秩序が崩壊したあと再び創発された秩序は、前のものとは異なる場合が示されるなど、自然界に起こっている様々な複雑な現象を理解するのに有用であると思われる。

本書はこうした複雑系科学の理論が急速に発展した1990年代に書かれ、グリックの「カオス」と同じように科学の現場の様子をいきいきと描きだしている。

本書で紹介された様々な取り組みが三十年たって、その後どうなったのかをつぶさに知ることができる。複雑系の理論は、本書の末尾で指摘されていた「安易なアナロジーがいかに有害なものともなり得るか」(p243)という危惧をのりこえ、様々な展開をみせている。生成AIの大発展においても複雑系の理論は重要な鍵になっているし、実際の生命や人間の知能のはたらきを理解するのにもおおいに役立っているようだ。

図1. ライフゲームの初期状態。乱雑な状態から出発する。

図2. 1000ステップ目の状態。活発に動いている。左上に奇妙な形の構造体がある。

図3. 5000ステップ目の状態。幾何対称的な構造体が数多くあらわれる。

図4. 10000ステップ目の状態。左上の構造体は1000ステップ目と同じ形をしている。

 

科学革命の現場を描く:「カオス 新しい科学をつくる」ジェイムズ・グリック

カオスとフラクタル、といえば現代の物理学では既に定着した概念となり、現場でも当たり前のように使っている。

カオスとフラクタルの理論は、1960年代から1980年代にかけて発展した。研究が始まった当初は、物理学の主流からは相手にされず、本書が書かれる1987年頃までは、同好の仲間が草の根的なネットワークを作りひっそりと研究を進めていた。

ニューヨーク・タイムズの記者であった著者グリックは、この草の根的な科学者たちのネットワークに接触し、当時まさに進行中であった研究の現場に深く入り込んで本書を書いた。

本書は大ベストセラーとなり、カオスとフラクタルという言葉を世の中に広めてその市民権を確立させた。またネットワークの外の科学者たちにも刺激を与え、ある種の科学革命ともいえるこの分野の発展をさらに促した。

カオス(混沌)という言葉は、1975年の李とヨークによる論文「周期3はカオスを意味する」によって登場した。野生生物の増減を表わすことに使われる非常に簡単な一次元の方程式(ロジスティック方程式)のパラメータを、変動を大きくする方向に変えていくと、周期がだんだん増えていき、周期3を超えると間もなくあらゆる周期が出てくるようになる。

李とヨークは、ロジスティック方程式に含まれる非線形性によって、単純な方程式であっても一見でたらめに見える不規則な振動を現すことを数学的に証明し、これをカオスと名づけた。

カオスは、李とヨークの発見にさかのぼること十数年前に、気象学者のローレンツが気象のふるまいを単純化した三変数の微分方程式(ローレンツ方程式)にみいだした不規則な振動においても表現されていた。ローレンツ方程式の解の動きを可視化すると(図1)、絶対に周期的にならない、決して同じ場所を通らない軌跡が見てとれる。

興味ぶかいことに、軌跡は完全に乱雑になることはなく、一定の範囲におさまり蝶の羽のようなある種の秩序だった様子を示す。これがストレンジ・アトラクターと呼ばれる現象である。軌跡が集まっているところと離れているところの縞々模様が印象的であり、有限の空間内に無限の重ならない線が収まっているところが不思議である。

図1 ローレンツのストレンジ・アトラクター

さらに面白いことにストレンジ・アトラクターの細部を拡大すると(図2)、同じような縞々模様があらわれる。もっと拡大すると、同じ縞々模様がまたあらわれる(図3)

。これは自己相似性とよばれる特徴であり、本書が紹介するフラクタル理論が示す幾何的な特徴である。標語的に言えば、「カオス・アトラクターはフラクタル構造を持つ」ということだ。

図2 ストレンジ・アトラクターの中心部分を拡大した様子

図3 さらに拡大した様子

フラクタル構造は、単純な規則の繰り返しでつくりだすことができる。ある種のフラクタル構造をつくる規則はうまく変換すると、カオスのロジスティック方程式と同じ数式になる。自然界の様々な現象の時間的な変動と空間的な変化は、それぞれ複雑で混沌に満ちているようであるが、その裏には簡単な規則の繰り返しという普遍性がみいだされるのである。

カオスの発見以来、半世紀たった現在では大規模言語モデル(生成AI)の発展が著しい。生成AIについては、ざっくり言ってしまえば「次に来る単語を予測する」という単純な規則をおそろしくたくさんの学習に適用した結果、複雑な知的能力をもった存在として発現した、と言えるように思う。

人間自身の知能だって、長い進化において似たようなメカニズムで発現した(しかも人間の思考はAIと同様に言葉、とくに書き言葉によって強化されている)と考えれば、生成AIがいま獲得しつつある知能は人間と同じようなものだろう。科学研究のある面では人間の知能を上回っていることがいま続々と報告されている。すごい時代になったものだ。