繁栄をもたらす制度とは:「国家はなぜ衰退するのか」ダロン・アセモグル、ジェイムズ・A・ロビンソン

 

交通や通信の発達で一体化した現代の世界においても、国どうしの経済的な格差はとても大きい。この問題に対し本書は、持続的な経済成長を実現しやすい政治経済の制度と、そうではない制度があり、国どうしの経済格差は国を成り立たせている制度の違いによるものであることを示している。

たとえば、アフリカ大陸の隣国であるボツワナとジンバブエは、1980年代には同じような経済状態だったが、2026年現在では一人当たりGDPで約2倍の格差となっている。こうした違いについて本書は、ボツワナでは財産の所有権が保護され自由な経済活動が進められてきた一方、ジンバブエでは、財産の所有権が侵害され経済活動が政権に近い特権グループに独占されてきたことによるものだと言う。

本書では、私有財産権が保証され、多数の人々が自由に経済活動に参加できる制度を「包括的」な経済制度と呼び、そうではなく少数の人々が経済活動の主導権を独占し他の人々の経済活動から富を搾取する制度を「収奪的」な経済制度と呼んでいる。

大事なことは、政治制度にも包括的なものと収奪的なものがあり、包括的な経済は包括的な政治制度を伴わないと持続しないということだ。包括的な経済は、収奪的な政治支配者にとっては格好の搾取の対象となり、一回生じたとしても安定して続くことはない。

経済成長は、物的な資本や人的な資本が増えれば、収奪的な制度であっても一時的に実現するが、技術革新が生まれないと長続きしない。包括的な政治経済の制度のもとで、人々は自由な試行錯誤の機会を与えられ、既存手法の「創造的破壊」の結果として技術革新が生まれそれによって成長は持続していく。

本書は歴史上、包括的な政治経済の制度が発展したのは、近代資本主義社会だけだと言う。人類の歴史において生じた文明のほとんどは、収奪的なものだった。このことは、なわばりを確保し資源のゼロサム的な奪い合いによって生存を確保する行動が、生物的・本能的な動機によるものだと考えると理解できる。ジェイン・ジェイコブズが言う、人類を含むすべての動物に共通した「統治の倫理」に対応すると考えられる。

ところが人類は、なわばりを越えた物や情報の交換が、プラスサム的な付加価値を生むことを後天的に知るようになった。これは、ジェイン・ジェイコブズによれば「市場の倫理」であり、包括的な制度を生み出す倫理的な動機になると理解できる。

ジェイン・ジェイコブズが言う「統治の倫理と市場の倫理が共生したものこそが文明である」という視点は、包括的な政治経済の制度が安定して発展した姿を指しているのだと考えたくなる。

さらに考えたくなるのが、包括的な政治経済の制度を実現したのは歴史上、近代資本主義だけだったのかという問いである。

人類学・考古学の立場からグレーバーとウェングロウは「万物の黎明」において、収奪的な政治制度を伴わない文化の実例を示している。例えば、北米大陸では高度に集権的かつ収奪的だったカホキアが崩壊したあとに、包括的な制度をそなえた分権的なイロコイ連合が成立し発展した。イロコイ連合は、後のアメリカ合衆国が包括的な政治制度を作りあげるのに際して、まさに参考にされた先行例だった。

本書で紹介されているボツワナの場合においても、近代資本主義の到来に先立って既に包括的な制度が現地に存在しており、後の発展の土台になったことが言及されている。

これまで近代資本主義だけが包括的な制度を実現したのかという問いは、未来を考えるにあたっても大事なものだ。

現代の世界では、資本主義の強い影響下にありながら包括的な制度の確立に至らず収奪的な制度のもとで低成長にあえぐ国々が依然として存在している。包括的な制度が多様でありうるという展望は、そうした国々においていかに包括的な制度を実現していくかという困難な問題を解決するにあたって、重要な示唆を与えると思う。

寒冷化がひきおこしてきた歴史の波動:「気候文明史」田家康

本書は、その名のとおり「気候文明史」であり、氷床コアなどからわかってきた過去の詳しい気候変動(下図)などをもとにして、気候と文明のかかわりを詳しく解説している。

最終氷期が終わってから地球の気温は上昇し、8200年前の寒冷化イベント以降は、5500年前までは最適気候期とよばれる温暖な気候が続いた。その間に豊かな狩猟採集生活を続けた人類は、定住的な生活に移行していくうちに農耕や牧畜も開始した。

ところが、5500年前以降、最適気候期は終わり、最近の150年前まで5000年間、長期的な寒冷化傾向が続いてきた。これを特徴づけるのは過去6回を数えた寒冷化イベント(下図青矢印)であり、こうした寒冷化イベントが世界各地で同時多発的な文明や社会の変動をひきこしてきた、と解説するところが本書の最も面白いところである。

グリーンランド氷床コアの酸素同位体比率からわかる過去の気温変動
(データ出典:North Greenland Ice Core Project Members 2007)

特に、5500年前から5000年前の寒冷化イベント(ピオラ振動)がエジプトやメソポタミアの大河周辺の乾燥化を促し、大規模な灌漑にたよる農耕を強いられることで必要となった権力の集中と管理の大規模化が、巨大な神殿と文字を記録する官僚制によって特徴づけられる、いわゆる古代文明を生み出した、という見立てが興味深い。

しかし気候変化が歴史の動きを決定する、というよりは、気候変化に応じつつ人類は自ら社会を変革させてきた、と見るのがより最もらしいと言えるだろう。ピオラ振動への対応は、古代文明だけではなく、アフリカ大陸におけるバンツー族の大移動もひきおこした。

本書初版時(2010年)の後から、発掘された人体のDNA解析が飛躍的に進歩したことで、文字を持たない社会の変動が具体的に明らかになった。(例えば

https://myzyy.hatenablog.com/entry/2022/05/22/213635

そこでわかったことは、ピオラ振動に対応して、カスピ海周辺の草原地帯の牧畜民たちが馬車の移動による史上最初の遊牧文化であるヤムナヤ文化を生み出したことである。ヤムナヤ文化を受け継ぐ人々がその後数度の寒冷化を経て、現在のヨーロッパやインドの多数派大集団をつくりだしたのである。

寒冷化はしばしば、様々な文明を崩壊させてきたと考えられてきた。本書が示唆していることは、寒冷化は、むしろ様々な社会の(しばしば自覚的な)再編成を促してきたと考えるのが正しい、ということである。

例えば、1800年前から1400-1200年前の寒冷化イベント(古代末期小氷期)は、日本列島ではそれ以前の温暖期につくられた地域共同体を消失させ、それに依拠していた律令制を形骸化させる一方で、私有地荘園に基づく富の拡大をもたらした。ヨーロッパ大陸でも、その後の中世温暖期の繁栄を生み出す様々な社会システムの変革をひきおこした、と考えられる。

グレーバーとウェングロウの「万物の黎明」で紹介される北米先住民族のカンディアロンクは、800年前から150年前までの寒冷化イベントに対応するうちに、カホキアを代表とする集権化された都市文化を自覚的に放棄して分権的・分散的な文化に移行した人々の末裔である。カンディアロンクが当時の西欧文化をとらえたみかたは、集権化・階層化された文化がより進歩している、という考え方をくつがえす衝撃を与える。

さて150年前以降、人類は寒冷化ではなく温暖化の時代に生きている。この温暖化は人類がつくりだした二酸化炭素などの温暖化ガスの大放出によって急激に加速している。本書出版時には温暖化開始以降0.5℃の気温上昇であったとしているが、今日ではすでに1℃の気温上昇に達している。文明開始以降、くりかえされる寒冷化に対応してきた人類は、いまや、これまで前例の無い急激な温暖化に直面している。これまでの歴史をふりかえれば、結果として人類総体としてはこうした気候変化に柔軟に対応するだろうといえるが、個人個人としてはどんな運命をたどるのか、かたずをのんで見守らざるを得ない。

「歴史的依存性」に抗する人間の力:「考古学の黎明」小茄子川歩・関雄二 編

近年世に出たグレーバーとウェングロウの共著「万物の黎明」は、人類の歴史を、狩猟採集社会→農耕社会→産業資本主義社会、と後戻りできない一方通行の流れで捉えるみかたをくつがえす挑発的な論調でその界隈を賑わせているようだ。

本書は、「万物の黎明」に影響を受けた日本の考古学者たちの様々な応答をまとめている。

グレーバーとウェングロウの主張で最も重要だと思うところは、人間はその発端から、想像力に富み、知的で遊びを好み、あらゆる事柄について試行錯誤を繰り返して、その結果から自覚的に将来を選択することができる生物であった、というものだ。

「万物の黎明」では、狩猟採集から農耕への移行過程における数千年の試行錯誤に着目し、農耕への移行は決して強いられたものではなく、特定の文化による自覚的な選択であった、とする。また、狩猟採集や農耕といった生産様式や社会の階層化についての「選択」によらない、都市化を含む複雑な社会の形成について論じている。

本書では、インダス文明、太平洋の離島社会、オリエントのメディアやマガン、アンデスの神殿更新社会、縄文文化など、階層化を前提としない複雑な社会の多様な実例について紹介している。

一方で、西アジアにおける農耕への移行については一定の必然性があったとする論考があり、意図せずに様々な儀礼や取引を繰り返している間に階層的な社会が生じるメカニズムを、日本の古墳時代やエジプトと中国の古代文明に見いだす論考もある。

興味深いのは、意図せずに階層的な社会が生じるメカニズムについて、複数の論者が柄谷行人の交換様式を援用しているところだ。様々な互酬の儀礼(交換様式A)や、市場での取引(交換様式C)を繰り返している間に次第に王家の支配(交換様式B)が確立していく様子は、まさに交換様式が人間に強いる「力」の存在を実感させる。

グレーバーとウェングロウは、人間の自覚的な意思と創造性が持つ「力」を強調する。柄谷行人は、交換様式が人間に強いる「力」の存在を示す。本書で紹介されている考古学的・人類学的実践は、どちらの「力」も社会を変化させるメカニズムとしてはたらいていることを示唆している。

社会変動の力学における複数均衡の存在を前提にすると、グレーバーとウェングロウは複数均衡を自覚的に選択する可能性を言っていると理解できる。一方、柄谷行人は、社会が均衡に至る経路を強化する、歴史的依存性につながる議論をしていると思う。いったんある均衡に向かう経路に入ると、社会に及ぼされる「力」のはたらきによって、別の経路に至るのは難しくなる。

本書の論者たちは大筋において、歴史的依存性に抗って複数均衡を自覚的に選択できる人間の力を支持しているようだ。問題は、複数均衡の安定性(歴史的依存性)のありようと、それに対応する人間の自覚的な選択の力の強さを定量的に比べ評価することだと思う。今後これらの問題について、「圧倒的な」証拠が実証的に積み上げられることを期待したい。

未来の感触、今ここの現実が変わる感触:「オールウェイズ・カミングホーム」アーシュラ・K・ル=グィン

オ-ルウェイズ・カミングホ-ム (上)

「オールウェイズ・カミングホーム」は、2万年後の地球を舞台に、ケシュ族という人類の末裔の営みを描いている。ケシュ族のありようは、北米先住民族の文化に似ているようであり、ル=グインの父親が北米先住民族の研究者であったことを想いおこさせる。

興味深いのは、ケシュ族が、地球外までひろがるAIネットワークである「心の市」(City of Mind)にアクセスしているところだ。この設定こそ作品を、北米先住民族のありようから着想した寓話ではなく、人類の未来を想像させるSFたらしめている重要な点だと思う。

ケシュ族はこうした高度技術にあまり頼らない抑制的な生活様式を維持しており、社会構造も階層的・抑圧的でなく、平和を重んじている。重要なのは、攻撃的・抑圧的なコンドル族への対応でもわかるように、彼らが、高度技術や他の社会のあり方を知りながら、自覚的に自らの生活様式を選択しているところだ。

読者としてはさらに、地球外に人類の末裔(ポスト・ヒューマン)がAIとともに活動していると考え、工作者・機械主義者シリーズでブルース・スターリングの想像する未来と接続していると考えたくなる。

蝉の女王 (ハヤカワ文庫 SF ス 5-2)

なぜそう考えるかというと、ケシュ族の時代よりさらに未来、別の文化に属するであろう考古学者パンデラが、AIのデータベースを調べて、生活様式や神話、物語などの考古学的資料を参照しているという重層的な設定になっているからだ。

ケシュ族は高度技術の存在を認めながら自覚的に自身の文化を選択しているし、さらに地球外のポストヒューマンたちと無意識のうちに共存していると考えるのが、読者として楽しくなる。「オールウェイズ・カミングホーム」は1985年の作品で、ル=グィンは1980年代初頭に現れたスターリングたちのサイバーパンクSFを高く評価している。作品に登場するAIが、サイバーパンクSFから着想を得たものであってもおかしくない。

SFやファンタジーを読む楽しみのひとつは、未来の感触、今ここの現実が変わりうるという感触を会得することだ。ル=グインが描くようなエコトピアの未来も、スターリングが描くようなサイバーパンクの未来も、どれもありうるし、自覚的に選択できる。そう考えることは、人間が将来成すことのできる様々なことがらの可能性を考えるうえできっと大事なことだ。

海民が行き来した「なめらかな空間」:「古文書返却の旅」網野善彦

歴史家網野善彦は、「無縁・公界・楽」(1978年)において、日本中世では人間の原初的自由、自治の精神を保った場所として寺社や都市などの「無縁所」が存在していたが、江戸時代の近世に入ると自由・自治が圧殺されるとともにこうした「無縁所」は衰微したと主張した。

網野は、その後1980年代以降、本書で紹介されているように様々な地方の漁村にある古文書の精査に携わるうちに、そうした自説を修正した。近世はむしろ、中世までに成長してきた村や町の自治を積極的に認める社会として発展したと考えるようになったのだ。

本書で紹介されている、時国家をはじめとする奥能登で活動した人々のなかには、廻船による大規模な交易や鉱山の開発などに従事した、多角的な企業家としか呼びようのない人々が数多く存在した。調査の結果、幕藩制支配の表むきには「水吞」や「下人」として記載されていた人々がそうした経済活動に従事していたことがわかり、従来の農業主体の江戸時代の描像を大きく修正することになる発見であった。

これらの調査からわかった事柄は積極的な講演活動を通じてさかんに発信されており、「海と列島の中世」などでまとめて紹介されている。

瀬戸内海の二神島と由利島への訪問記も興味深い。二神島には古くから海賊的な武士として二神氏がいた。二神氏は現代まで続いており、数多くの古文書を保管していた。網野は1950年代に水産庁のプロジェクトで借りたまま放置されていた文書を返却するため、1980年代に再び二神島を訪問した。

二神家には江戸時代中国の清王朝の銭が多く保存されており、当時、鎖国であったにもかかわらず中国との活発な交易のあとをうかがわせる。瀬戸内海の海民は対馬や朝鮮にも行って活発な活動をしていたという。

網野は「海と列島の中世」におさめられた講演において、中沢新一をつうじてドゥルーズとガタリの「仕切られた空間」(条理空間)と「なめらかな空間」(平滑空間)の概念を海民らの活動に適用している。海民は「なめらかな空間」である海で自由に活動し、充溢する自然の力と無媒介的にわたりあって生きていた。中世ならば海賊行為も辞さない「悪党」とも言われた人々である。江戸時代になって、「仕切られた空間」である幕藩制に包摂されながらも「なめらかな空間」である海とは常に行き来していた。

海民は自然の力である海流(潮)についてもよく理解していただろうと思う。二神島から由利島方向に向かうときはその向きの潮を使っただろうし、逆の場合は逆向きの潮を使っただろう。現代のシミュレーションで、潮の行き来を見ることができる。

本書では、かつてテレビ番組「電波少年」でロッコツマニアが由利島から二神島まで漂流したことが書いてある(p74)が、ロッコツマニアもこの潮に乗って流れ着いたのだろう。

JAXAひまわりモニタで見た、二神島周辺の海流
(二神島→由利島)

JAXAひまわりモニタで見た、二神島周辺の海流
(由利島→二神島)

読書の罠:「虹の理論」中沢新一

 

読んでいて気持ちが揺さぶられる、印象的な本である。本書では、大気中の水粒子に太陽光があたって分光する虹の物理的なメカニズムになぞらえて、様々な文化的表象が生成されるメカニズムを分析している。

「虹の理論」では、太陽光は、絶対的な自然の力であり、水粒子は、人間の無意識や身体であると捉えられる。絶対的な自然の力が人間の無意識や身体に作用して様々に屈折した結果、神話や音楽、作庭術や市場などの文化的表象がうみだされると考えるのである。

同じ「虹」であっても屈折のしかたによって、現れ方は様々である。19世紀西欧のロマン主義は、近代の合理主義によって引き裂かれた自然と文化を、芸術や神話という超越的な力でもう一度「混然一体となった原初の統一状態」へ回帰させようとした。例えば、19世紀のロマン主義的な音楽が半音階技法などをもちいて大地が表象するような古い自然と文化が混然一体となったイメージ(夜の神秘主義)を表現したのに対し、20世紀の現代音楽が、新しい自然の表現(朝の神秘主義)と呼びうるような別の何かを表現しようとしたのだとする「人類学者の手記」はとても興味深い。

本書が批判するロマン主義が、引き裂かれた自然と文化の全体を包括的に理解しようとする欲望に由来するものだと考えるとさらに興味深い。こうした欲望の批判は、「虹の理論」を、読書経験だけ、言葉だけで理解しようとするこの私の欲望にも当てはまると思う。

本書が言う「虹」(様々な文化的表象)は、なにか超越的なエネルギーによってつくりだされる無色透明な「光」が人間の無意識や身体の物質性による様々な「屈折」することを通じて生成される。著者は、チベット仏教やバリの呪術など様々な身体技法の実践によって屈折のメカニズムを具体的に実感したうえでこの理論をつくりだした。ところが、そのような具体的な身体的実践無しに「虹の理論」を理解しようとする私には、ただただ本書の主張が心地よく、面白く感じられるだけだ。

言葉をあやつる人文系の学問には、自然科学における実験や予測による検証にあたる手続きが必要だと感じられる。東浩紀のいう「訂正可能性」の導入がそれにあたるだろうか。そうした手続き無しには、言葉をあやつることによってだけ世界を理解(あわよくば支配)しようとする欲望の自家中毒といったような、「読書の罠」にはまると思う。自家中毒しそうなほど魅力的なテキストをつくりだす著者の力量には、敬服するだけだが。

分断からパートナーシップへの転換:「火明かり」アーシュラ・K・ル=グィン

 

ル=グィンの「ゲド戦記」は、1-3巻の前期(1968-1972)と、4-6巻の後期(1990-2001)では書かれた期間がおおきく異なる。同じ多島海世界(アースシー)を描いているのに、その世界のとらえ方もおおきく異なっている。この転換は、フェミニズム的立場からなされたものであると著者本人は言っている(本書所収、「「ゲド戦記」を”生きなおす”)。

ここでは、前期作と後期作が書かれるあいだに生じた、東西冷戦の終結と、それによって生じた社会主義国家群の消滅による社会的思潮の変化との関係を問うてみたい。松尾匡がいうところの「転換X」である。この転換によって、政府の役割は特定のイデオロギーによるあらゆる社会領域の統制(裁量政府)から、自由な市場経済が持続的に成長するための基盤(共有財)を提供すること(基準政府)であると位置づけなおされた。

共有財とは、民意に基づく法の支配であり、治安の維持であり、さらには持続的な経済成長である。これらの共有財の目的は、先々の生活における人々の予想を確定させることである。

「ゲド戦記」後期作におけるレバンネン王の新しい政府には枢密院議会と最高裁判所が設置され、王が組織した軍が海賊を制圧して域内に平和をもたらした。おそらく島々の間の関税も撤廃されて交易が拡大し、経済成長も促されたと想像したい。こうした変化によって、ロークの大賢人を頂点とする男性魔術師たちによる、高潔な人治を通してではあるが裁量的な支配は不要になった。

転換前の作品では、男と女、人と竜、アースシーとカルガド、など様々な分断が前提とされていた。著者本人が言うように、当時の英雄空想物語の文法に無意識のうちにしたがっていたのである。しかし転換後の作品では、こうした分断を繋ぐパートナーシップが丁寧に描かれている。そしてレバンネン王の新しい統治は、まさに「基準政府」として先々の生活の予想を確定させ様々なパートナーシップの発展を促すようにはたらいている。

最近出た「ゲド戦記」別冊の本書に所収されている二作品、「オドレンの娘」「火明かり」は著者の最晩年(2018年)のあたりで書かれた。一読して、最晩年になってもル=グィンがこうした転換を一貫して支持していたことがわかり、嬉しくなった。とくに、大人の男女のパートナーシップを最後まで力強く示したことに深く共感している。

そんな折に偶然、京極夏彦が「巷説百物語」シリーズを終わらせるとした「了巷説百物語」を読んだ。

嬉しい驚きは「巷説百物語」も、最後になって様々なパートナーシップの称揚にたどりついたことである。尊敬する二人の作家に共通する到達点を見出したことを喜びたい。