交通や通信の発達で一体化した現代の世界においても、国どうしの経済的な格差はとても大きい。この問題に対し本書は、持続的な経済成長を実現しやすい政治経済の制度と、そうではない制度があり、国どうしの経済格差は国を成り立たせている制度の違いによるものであることを示している。
たとえば、アフリカ大陸の隣国であるボツワナとジンバブエは、1980年代には同じような経済状態だったが、2026年現在では一人当たりGDPで約2倍の格差となっている。こうした違いについて本書は、ボツワナでは財産の所有権が保護され自由な経済活動が進められてきた一方、ジンバブエでは、財産の所有権が侵害され経済活動が政権に近い特権グループに独占されてきたことによるものだと言う。
本書では、私有財産権が保証され、多数の人々が自由に経済活動に参加できる制度を「包括的」な経済制度と呼び、そうではなく少数の人々が経済活動の主導権を独占し他の人々の経済活動から富を搾取する制度を「収奪的」な経済制度と呼んでいる。
大事なことは、政治制度にも包括的なものと収奪的なものがあり、包括的な経済は包括的な政治制度を伴わないと持続しないということだ。包括的な経済は、収奪的な政治支配者にとっては格好の搾取の対象となり、一回生じたとしても安定して続くことはない。
経済成長は、物的な資本や人的な資本が増えれば、収奪的な制度であっても一時的に実現するが、技術革新が生まれないと長続きしない。包括的な政治経済の制度のもとで、人々は自由な試行錯誤の機会を与えられ、既存手法の「創造的破壊」の結果として技術革新が生まれそれによって成長は持続していく。
本書は歴史上、包括的な政治経済の制度が発展したのは、近代資本主義社会だけだと言う。人類の歴史において生じた文明のほとんどは、収奪的なものだった。このことは、なわばりを確保し資源のゼロサム的な奪い合いによって生存を確保する行動が、生物的・本能的な動機によるものだと考えると理解できる。ジェイン・ジェイコブズが言う、人類を含むすべての動物に共通した「統治の倫理」に対応すると考えられる。
ところが人類は、なわばりを越えた物や情報の交換が、プラスサム的な付加価値を生むことを後天的に知るようになった。これは、ジェイン・ジェイコブズによれば「市場の倫理」であり、包括的な制度を生み出す倫理的な動機になると理解できる。
ジェイン・ジェイコブズが言う「統治の倫理と市場の倫理が共生したものこそが文明である」という視点は、包括的な政治経済の制度が安定して発展した姿を指しているのだと考えたくなる。
さらに考えたくなるのが、包括的な政治経済の制度を実現したのは歴史上、近代資本主義だけだったのかという問いである。
人類学・考古学の立場からグレーバーとウェングロウは「万物の黎明」において、収奪的な政治制度を伴わない文化の実例を示している。例えば、北米大陸では高度に集権的かつ収奪的だったカホキアが崩壊したあとに、包括的な制度をそなえた分権的なイロコイ連合が成立し発展した。イロコイ連合は、後のアメリカ合衆国が包括的な政治制度を作りあげるのに際して、まさに参考にされた先行例だった。
本書で紹介されているボツワナの場合においても、近代資本主義の到来に先立って既に包括的な制度が現地に存在しており、後の発展の土台になったことが言及されている。
これまで近代資本主義だけが包括的な制度を実現したのかという問いは、未来を考えるにあたっても大事なものだ。
現代の世界では、資本主義の強い影響下にありながら包括的な制度の確立に至らず収奪的な制度のもとで低成長にあえぐ国々が依然として存在している。包括的な制度が多様でありうるという展望は、そうした国々においていかに包括的な制度を実現していくかという困難な問題を解決するにあたって、重要な示唆を与えると思う。














