本作の主人公、浮世絵師の歌川貞芳は、常に描き続けようとする絵師である。「この世のすべてのものが、一つ一つ、かけがえない存在(もの)だということ」(本書文庫版、p202)を感じ、そこここに満ち溢れる「生命の勢」(p83)を写しとりたいからである。作者の辻邦生じしんが、文章を書くことによって同様のことを行おうとしていたのであり、晩年まで創作意欲はきわめて旺盛であった。本作では、幕藩体制の揺らぎに翻弄される人間像をも「生命の勢」の現れとして描いているところが興味深い。
本作では、主人公の意欲的な創作活動を反映して、江戸の街をよく歩きまわっている。読んでいると、江戸=東京の地が平坦ではなく、起伏に富んでいる様子がわかってきて楽しい。「湯島妻恋坂心中異聞」では、神田山周辺で歩き回っている。
標高図を見るとわかるように、神田山の南端を切り開いて作った人工の渓谷を神田川が流れている。興味がわいたので、実際に歩き回ってみた。
文章の記述とかなり一致しているようで、小説の登場人物たちが実在してこのあたりを歩きまわっていたかと思われるくらいだ。