遺伝子の呪縛:「女と男 なぜわかりあえないのか」橘玲

 ここ二十年ほどで男女の性的ふるまいについての進化心理学的な理解は急速に進んだ、と本書の著者は言う。ヒトが進化した環境は恒常的な飢餓状態にあり、そのなかで子孫を増やしていくためにオスは「とてつもなく強い性欲」を、メスは「とてつもなく強い子供への愛着」(共感力)をもつように遺伝子的に設計された(第6章)。というか、そのような遺伝子をもつ個体のみが子孫を残すことができたのだ。

このため、性的な関心のもち方はオス・メスで大きく異なり、オスが単純に「ポルノのユートピア」を夢見る一方、メスは複雑な「ロマンスのユートピア」を夢見ている(第9章)、「メスにとってのエロスとは、アルファから愛されること」である。アルファとは最上位のオスであり最も生存可能性を高める遺伝子をもっているとみなされる。典型的なロマンス小説のストーリーは、アルファとベータ(第二順位のオス)をめぐってゆれうごいたヒロインが最終的にはベータを拒否してアルファに選ばれるというものであり、ネットでよくいわれている、メスの「負の性欲」と同じメカニズムがはたらいている。

オスは精子を方々にばらまいて自分の遺伝子を残すコストが小さく、メスにとって自分の遺伝子を残すために受精して妊娠し子供を産んで育てるコストは大きい。この違いからアルファのオスにとって最適な戦略は「浮気」であり、メスにとって最適な戦略はアルファオスの遺伝子を得てベータオスに育児の資源を提供してもらう「托卵」となる(第13章)。そうはいっても、この戦略ばかりが幅をきかせるようになると、(アルファになれない)大半のオスは育児資源を提供しなくなるだろうから、メスの大半は「純愛」という戦略をとることになるだろう。

本書では、ヒトはもともと(チンパンジーボノボのように)乱婚であったが、やがて一夫一妻に移行した、という説を紹介している(第20章)。ヒトの身体的な特徴は乱婚の痕跡をのこしているが、脳容量の急激な拡大によって未熟児として生まれざるを得なくなり、メスはオスの長期的な育児への資源投入を必要とするようになって、一夫一妻に進化してきた、というのだ。しかし一方でヒトの文化には厳密な一夫一妻はそれほどみられず一夫多妻への志向が広範に観察されており、まだ謎がのこされている。

本書で驚くべき説として紹介されているのが、ヒトのメスの心理的な性的興奮と身体的な性的興奮は必ずしも一致しないという話だ(第4章)。したがって身体的な性的興奮がすなわちメスの性的同意とはいえなくなる。ヒトのメスの性欲の問題はメス自身の問題というよりはむしろ、多分にパートナーとなるオスとの関係性の問題なのだ(第8章)。

ヒトのオスとメスの性欲のあり方はとても異なっている。そう考えると、男性向けと女性向けの風俗的サービスのあり方が違ってくるのは当然で、その意味でこれまで女性向け風俗の世界を開拓してきた柾木寛氏の活動が現在、「疑似恋愛的な活動よりも、整体師としての改善施術のほうが性にあっています」(下記、p264)となっていることが興味深い。女性向け風俗を担うセラピストが、技術系セラピストと、心を扱うのが得意なセラピストに大別されるというのは、性的興奮のあり方が心理的なものと身体的なものとで分離していることと関係しているのだろうと思う。