「経済の拡大−完全雇用」の実現を目指したリベラリスト: 「石橋湛山」 増田弘

石橋湛山―リベラリストの真髄 (中公新書)

石橋湛山―リベラリストの真髄 (中公新書)

私の父親は、左翼であり、「三角大福中」に代表されるような1970年代から1980年代にかけての自民党政治に対して終始批判的であった。ただ、過去歴代の自民党首相で一番よかったのは石橋湛山だ、と当時よく言っていた。子供であった自分は、「湛山」が不思議な名前だと思うくらいで気にもしていなかったが、この評伝を読むと、父親が好印象をもっていた理由がわかったような気がする。

石橋湛山の真骨頂は何といっても筋金入りの言論人であり、生涯をとおして終始それは変わらなかった。アジア・太平洋戦争という最悪の事態を迎えても、戦後GHQの反感をかい公職追放されても、一貫して積極的な活動を続けたのは言論人という核があってこそのことだ。どのような状況にあっても、常に事態の打開策をつくりあげ提言する姿勢はまことに尊敬すべきものだ。

注目されるのは、彼の経済観である。自由主義者リベラリスト)として一貫して資本主義経済を支持しているが、社会主義への目配りも忘れていない柔軟な視点を持ち合わせている。戦前の金解禁デフレの際には、通貨を積極的に増やす(リフレーション)ことを提言し、現在のいわゆるリフレ派の祖として知られている。注目すべきことは、戦後のインフレに対し蔵相として対応にあたった際、通貨を減らして均衡させる(デフレ政策)よりは、物資の供給が不足していることが原因であるとし財政による支援をつうじ生産を増やして均衡させようとしていたことだ。さらにその後、自ら内閣を組織する際にも、「経済の拡大−完全雇用の実現」を目指して政府が力を尽くす姿勢を明確にしている。戦前の有名な「小日本主義」の主張は、植民地を維持拡大するよりも、これを放棄し植民地維持拡大のための軍備を撤廃したうえで、自由貿易と機会均等(自由な市場の開放)の原則で国を富まそうと意図するものだった。戦後の日本がたどった道はまさに「小日本主義」による経済成長であり、その先見性には瞠目せざるを得ない。

しかし、戦後の「小日本主義」はアメリカに安全保障の大半を委ねることによって実現することとなり、結果として日本はアメリカとソ連の対立(冷戦)に与することとなった。こうした事態は、1920年代には日英同盟を日本が「東洋の番犬」たるものとして批判していた湛山にとっては容認することができないものであり、晩年に至るまで冷戦の解決を目指した言論活動を積極的に行っていた。そうした中で1960年代に提唱した「日中米ソ平和同盟」構想をどう評価してよいか正直よくわからないが、東アジアにおける日本の安全保障が、日米同盟を前提としつつも日中米ロの共存を基盤としていることは現在も変わらないのである。

ともあれデフレによる長い停滞期をようやく脱し経済成長を目指そうという今、石橋湛山による、経済の拡大と完全雇用の実現に基づく「小日本主義」の主張は、再び輝きを放って強く響いてくるように思う。