生者にとっての怪異:「西巷説百物語」 京極夏彦

この世に不思議なことなど何もないのだよ、関口君 (「姑獲鳥の夏」ノベルス版 p16)

京極夏彦は、デビュー作の「姑獲鳥の夏」(1994年)以来一貫して、生きている人間の脳内で起こる現象である「生者にとっての怪異」のあり方を様々なかたちで描き続けている。巷説百物語シリーズの最近作である「西巷説百物語」(2010年)においてもまったく同様であり、世の中で起こる様々なやるせない出来事に対し、怪異という仕掛けが用いられることでどうにか終わらせるという話が収められている。状況を文章だけで語るという小説の特性がうまく使われていて、読者はしばしば、特定の登場人物だけが見ている現実である「怪異」に幻惑されてしまう。

「生者にとっての怪異」のあり方は、本作においても繰り返し、登場人物の口を借りて印象的な形で述べられている。例えば、

葬式はな、生きておるもののためにすんねんで― ... もう死人じゃ、二度と会えんと、そう思うためにすんねんて。それしとかんと、もしやと思うやろ。その、もしやもしやが迷いになんねん。そうなると― 化けるんやろな。(本書文庫版 p378)

そして、人間の生死それ自体はまったく物理的な現象であり、それ以外の意味をもたないが、

...生きとるもんはいずれ必ず死ぬ、早いか遅いか、それだけの差ァや。その生が慶ばれるかどうか、嬉しく思う者が居るか否か、その死が悼まれるかどうか、悲しむ者が居るか否か、それだけが肝心なんやで。(本書文庫版 p481)

ということなのである。

所属事務所を同じくし京極夏彦の盟友とも言える宮部みゆきは、このような「怪異」のあり方をよく理解したうえで、古今東西の様々な「怪異」を慈しむようにして集めた短編集を編んだ。

すべての善なるものが生者から生まれるのと同じく、すべての邪悪や恐怖もまた生者から生まれ出る。死者の霊魂や、闇のなかから這い出てくる怪物は、時折、生者がそういう真実の残酷さから目を背けたくなったときに、それらを肩代わりしてくれる存在であるのかもしれません。(「贈る物語 Terror」文庫版 p291)

私も深く共感する。