予言の自己成就としての失われた二十年: 「資本主義ーその過去・現在・未来」関曠野

今から32年前(1985年)、在野の独創的な著作家として活動していた関曠野が、左翼的な立場から資本主義の歴史と現状、そして未来について論じたこの一文は、その後に起きたバブル経済と失われた二十年を予言しているようにも見える。

これによれば、現代(1985年当時)の資本主義経済においては科学技術がもたらす付加価値(剰余価値)の維持に限界がきているという。「原子力発電所」に代表されるような現代の技術は、「特定の理論的知識と技術的ノウハウの馬鹿の一つ覚えのような応用」の産物であって、「収益逓減の法則の影響を蒙らざるをえない」からである。そのため、投資機会の急速な減少をまねき、そのかわりに「目まぐるしい短期的な投資や小賢しい投機」である「マネーゲーム」に資金が使われてしまう。その結果、税収の減少を通じて(?)国家財政の破綻を招き、やがては「破局的なインフレーション」に至って「共同社会としての資本主義社会の瓦解」をもたらす。国家は、こうした財政危機に対して緊縮財政と国債の発行で対応するが、それは「中産階級に危機のつけを回す政策」である。いずれ失業の増加を通じて格差拡大、「ホワイト・カラーの没落」を生じさせるであろうと予言している。

実際、その後の日本は、資産価格の大幅な上昇を伴う「マネーゲーム」のようなバブル経済とその崩壊を経て経済停滞に陥っていくのであり、予言通りの展開となったようにみえる。経済の停滞状況のなかで失業率は高止まりし国民の経済格差が拡大した。また政府の緊縮財政が続いて国債発行額が増加するとともに、土木、教育、研究、防衛など様々な公的投資はかなり減少し、社会基盤が毀損してしまった。

しかし、ここ30年あまりで私たちが経験したのは予言されていたような「破局的なインフレーション」ではなく、バブル崩壊の後に続いた緩慢なデフレーションであり、それは金融・財政の面でマクロ経済政策の単純な失敗がもたらしたものであった。この30年で日本以外の主要国は経済成長を続け、世界的に見て様々な技術革新が生み出されてきており、リーマン・ショックのような短期的な危機はあったものの資本主義経済自体は崩壊することもなかった。日本ではデフレが生じ、世界的にみても低インフレの状況が続いている。資本主義経済における供給力はゆるぎもしていないのである。

ともあれ、当時、関曠野が抱いていたような認識は、立場の違いこそあれ日本国内でひろく共有されていたように思う。こうした世論を背景に、バブルは政策的に強引に潰され、金融と財政の両面で緊縮政策が続けられてきた。その結果、関曠野の予言はある面で自己成就的に当たってしまったといえる。

興味深いことに、最近の関曠野氏の発言を見ると、デフレの問題は認識しているようであり、中央銀行通貨発行権を民衆の手に取り戻そうといった趣旨のことを述べているようだ。本書でも、西欧の初期資本主義が勃興する際に新大陸の金銀が流入して通貨供給量が大幅に増大し経済成長をもたらしたと書いているので、通貨の重要性についてはもともと理解があるようである。

近頃は、日銀も金融システムの安定性(民間銀行の経営状態?)に配慮して、インフレ目標にまだ達していないにもかかわらずこれ以上の金融緩和をやりたがっていないようだ。現在の日銀法には、日銀の政策目的には物価の安定とともに金融システムの安定性も含むと書いてあるためやむを得ないのだろうか。関曠野氏の主張を、日銀法を改正して政策目的に雇用の安定も加えるなど、通貨供給をもっと国民全体のため(たとえば雇用の確保のため)に用いるのだと理解するならば、傾聴に値すると思う。