ユーラシア諸国家繁栄の母胎として:「唐ー東ユーラシアの大帝国」森部豊

 

国史の概説書として一王朝だけを解説するものは意外にも少ないそうであるが、本書はこのうち「唐」(618-907)をとりあげた本である。

気候寒冷化にともない、多くの遊牧民が中国に南下し土着の漢人と融合した結果現れた王朝が唐である。唐の建国にいたる「胡漢一体」化のプロセスが、その前の魏晋南北朝時代の歴史的意義のひとつであるといえる。

南北朝の「未発の可能性」:「南北朝時代」会田大輔 - myzyyの日記

建国当時の唐は、黄河中流域の関中地方を拠点とする「胡漢一体」から成る強力な軍事力によって、東の河北・河南地方や南の江南地方を征服した。さらに東方の朝鮮半島、北方の突厥や西方のオアシス諸都市を勢力圏に加え、東ユーラシアの大帝国となった。

前半期の唐には遊牧的性格が色濃く残っていて、皇族たちの振る舞いにもところどころそうした特徴がみられる。則天武后が女帝として即位したことも、女性の権力が強い遊牧的伝統に沿うものであったのかもしれない。

8世紀初頭の「開元の治」から8世紀半ばの「安史の乱」にかけて、律令体制が弛緩し求心力が衰える。本書の面白いところは、「安史の乱」から唐の滅亡にいたる後期の歴史がくわしく描かれていることだ。

この時代、唐王朝は関中に拠った局所的な政治勢力として宦官、科挙官僚と彼らが掌握する近衛軍の動向によって動いており、かろうじて服属していた長江流域の経済力によって支えられる。一方、東の河北・河南、長江の南の江南地方では、節度使達が割拠して半独立の政治勢力となっている。その後の五代十国時代の諸国分立が、既に色濃く表れているのである。

さらに北方には契丹渤海、西にはウイグルチベット、南西には南詔など周辺諸民族が強力な政治勢力を形成する。それとともに、中国北部に移動してきたトルコ系の沙陀勢力が、唐王朝の動向に大きな影響を与えるようになっていく。

後期の唐王朝は、自らの安全保障のため、これらの外部勢力と多様な外交関係を展開する必要に迫られる。後の宋王朝でみられた多国間の外交関係は、既に後期の唐王朝で活発に展開されているのである。

後期唐王朝時代に形づくられた、遊牧世界の軍事力と農耕世界の統治ノウハウの結合が幾多の「中国征服王朝」の基盤となっていく。これを中国を中心にみるのではなく、ユーラシア全体の視点からみると「征服王朝」というより、「中央ユーラシア型王朝」(本書、p343)諸国家の繁栄の母胎となったのが、唐の歴史的意義のひとつだと本書は説く。現代の東ユーラシア-中央ユーラシア世界を展望するのにも役立ちそうな視点だと思う。