様々な言葉から浮き出てくる中世のダイナミズム:「法と言葉の中世史」笠松宏至

すぐれた研究者によって巧妙に概念化された古語は、それが現代語であるときよりも、はるかに魅力的で含蓄に富むひびきを伴って聞こえてくる。」(本書、p29)

と著者自身が語っているように、日本中世の古文書から様々な言葉をとりだして解説し、ありうる概念化に向けて考察していくという形式の短編が多く収められている。何となく、抽象的な概念化一歩手前で専門家が様々に試行錯誤を重ねていく様子を垣間見ているようで、面白く読める。

まとめて読み進めると、中世社会のダイナミズムが浮き出てくるようにみえる。「甲乙人」「中央の儀」「僧の忠節」「仏物・僧物・人物」などの言葉とその解説から、中世社会が脱聖化・世俗化し、たくさんのローカルな共同体が力を蓄え成長していった歴史のうねりが感じとれる。

一方で、「折中の法」「景迹の法」「傍例」などの言葉からは、「「知られざる」「口にされざる」法の大群が、何の効力をもつことなく、眠り続けていた」(p177)一方で、「一度法の名がよばれれば、それが「天下の大法」であれ「領主の故実」であれ、また立法権者たる天皇であれ、辺境の百姓であれ、ほとんど同次元の「法意識」をもってこれに対応せざるを得なかった」(p176)という、何だかややこしい中世人特有の法意識を知ることができる。中世人たちにとって法とは、多くの場合、思いもかけない幸運や凶事を召喚する魔法の呪文のようなひびきをもって聞こえていたに違いない。

エーラーン・シャフルと古代オリエントの終焉:「ペルシア帝国」青木健

本来、思想史を専門としており、一般向けとしてはゾロアスター教についての新書などを書いてきた著者が、ついにど真ん中の「世界史上に輝く」ペルシア帝国を全力で書ききった。まさに「世界史ファン」待望の好著である。

個別分野の研究に注力してきた歴史家がこうした通史を書くにあたっては、本書にあるようにいろいろと思うところがあるようだ。市井の一読者からすれば、ただただ嬉しい事この上ないのである。

ペルシア帝国といえば、これまではギリシアやローマの同時代人からの見聞をもとにそれらしく語られてきた。本書は、古代・中世ペルシアについての専門的な知見をもとにペルシア側からの歴史として新たに描きなおしているところが興味深い。言葉の響きからして違う。ダレイオスはダーラヤワイシュであり、サトラップはクシャサパ―ヴァンなのである。

ペルシア帝国は二つ興起しているが、本書では後半のエーラーン・シャフル、いわゆるサーサーン朝について特に詳しく書かれている。エーラーン・シャフルは、ペルシア州を基盤とするサーサーン家と旧パルティア系大貴族の連合を軍事的な基盤としていた。一方で、メソポタミアを中心とし、ペルシア湾交易で繁栄する都市文明を経済的な基盤とした。社会構造は、アーリア系らしくペルシア人の神官と戦士が権力を握る階級社会である。

古代末期のオリエントは東半をエーラーン・シャフルが、西半をローマ帝国が二分しお互いに引かず優劣がつかない状況だった。和平が成っている間は互いにその外側に向けて勢威を拡張し、オリエントの優越を示したが、戦争になると大変である。とくに7世紀はじめの30年に及ぶ戦争は「世界大戦」(本書、p26)という規模であり、互いに消耗しつくした結果、オリエントの古代秩序が消滅してしまった。

エーラーン・シャフルの国としてのあり方は徹底したリアリズムの産物であり、「叛乱を起こした者がいたら、容赦なく頭をぶっ叩く」(p24)ことである。宗教的秩序のあり方も、強い勢力が奉ずる神が偉い、というほどのものにみえる。皇帝の権力を掣肘する大貴族たちとの政治バランスが崩れると、繁栄する都市文明の富を背景にして創出した軍事力の歯止めが利かなくなった。帝国を維持発展させてきた「リアリズム」の破綻の結果が、「世界大戦」とそれに続く激しい内戦となった。

消滅した古代秩序を受けその「破産管財人」(p332)として、発展した都市文明に見合った新たな秩序を提供したのはイスラームであった。その後ペルシア人イスラーム世界においてイラン・イスラーム文化の花を咲かせることになった。エーラーン・シャフルの記憶は、後世のペルシア文学の素材となって様々に語り継がれることになるのである。

南北朝の「未発の可能性」:「南北朝時代」会田大輔

 

4世紀から6世紀にかけ、気候の寒冷化とともにユーラシア大陸では北方遊牧民が大規模な移動を始め、東(中国)西(オリエント)の農耕中心の文明におおきな影響を与える。北の遊牧起源の王朝と南の農耕起源の王朝が並び立つ南北朝の状態が東西で生じるのである。その後7世紀になって西側ではイスラム、東側では唐が南北をまとめるようなかたちで新たに広域の文明秩序を創り出す。本書は東の南北朝時代の概説書であり、南北入り乱れて激動するこの時代の様子をわかりやすく解説している。

おおきくまとめれば、4世紀は五胡十六国-南朝で北方がとくに入り乱れるが、5世紀には北魏-南朝南北朝時代、6世紀は東魏系-西魏系-南朝三国時代であると考えてよいだろう。本書では、それぞれの国どうしが周辺の国々を巻き込み、戦争を含めよく交流していた様子が描かれている。のちの統一王朝隋・唐は、南北朝の深い融合、まさに胡漢一体の王朝であることがよくわかる。

北魏から隋唐まで遊牧的要素の色濃い「拓跋国家」という言い方でまとめるというのは誇張しすぎということだろう。例えば、最初軍事的に劣勢だった西魏が強兵化していったのは、鮮卑由来の「北族」のみの軍隊から、支配地域から漢人を含めひろく徴募した「郷兵」の軍隊になっていったことが背景にあると読める。また北朝由来の隋は南朝征服後、その制度や文化をひろくとり入れた。

さらに南北朝時代を専門としてきた著者が強調することは、胡漢一体化の過程でさまざまな制度や文化が生まれその多くは後代に引き継がれなかったとしても、この時代の未発の可能性として注目されるべきということである。歴史家としての愛情のようなものを感じさせる言葉であり、印象に残った。

しかし、北朝南朝を生きた人々は、激動の時代を生き抜くために試行錯誤を重ねていたのであり、当然のことながら隋・唐に制度を伝えるために生きていたわけではない。数多の可能性のなかから、人々が選びとった道の先が隋・唐だったのである。本書を通じて、そうした人々の模索や苦闘のあとを感じ取っていただければ幸いである。」(本書、p259)

存分に感じ取らせていただきました!

 

生き残ったホモサピエンス:「人類の起源」篠田謙一

人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」 (中公新書)

一読して、結局、「ホモ属最後の末裔」として生き残ったのが私たちホモサピエンスだと思った。昔から、人類の歴史は、猿人、原人、旧人、新人と直線的な発展段階を経て現在に至るというイメージがあった。しかし、日進月歩しているDNA解析の最新成果から本書が示すように、共通祖先からホモサピエンスが分岐した60万年前から数万年前まで、ホモエレクトス(原人)、ホモネアンデルタレンシス(旧人)、ホモサピエンス(新人)等のホモ属各種は地球上で共存していたことがわかってきた。

しかも現在のホモサピエンスは、ホモネアンデルタレンシスをはじめとする、ほかのホモ属の種との交雑を経ている。ほかのホモ属たちは私たちの「隠れた祖先」(本書p34)でもある。

現在のホモサピエンスは、いくつかあったホモサピエンスのグループのうち、5万年前にアフリカを出て全世界に拡散したグループの末裔であることもわかっている。DNA解析によって、文字の無い時代の人類の歴史がもっと詳しくわかるようになるのが面白い。「アーリア人の大移動」の実態も、わかりかけているように思う。近い将来、歴史教科書の先史時代の記述はがらっと変わるだろうと思う。

なぜホモ属のなかで私たちだけが生き残ったのか。ほかのホモ属との交雑を経たうえでも、ホモサピエンス以外の生殖に関する遺伝子が排除されていることが興味深い。「私たちが残ったのは、単により子孫を残しやすかったため」(p65)かもしれないのだ。よく知られているホモサピエンスの旺盛な性欲は、生存に適していたということか。

いずれにしても、最終氷期が終わる1-2万年前までにホモ属の種はサピエンスだけになっていた。気温の変化(図)を見ると、最終氷期は最近1万年間に比べると気候変化が激しかったようだ。こうしたドラステイックな気候変化に耐えられずに他のホモ属が消滅したのだ、そしてサピエンスはその名のとおり賢かったからこの激しい変化を生き延びたのだ、と考えることもできそうだ。あるいは、サピエンスだけが温暖化した環境に適していたのかもしれない。意外にも他のホモ属は1万年くらい前まで生きていたが、温暖化しきわめて安定した気候を利用した農耕と牧畜の開始によってサピエンスが増殖することで他のホモ属を圧倒してしまったのかもしれない。

North Greenland Ice Core Project Members (2007)

しかし改めて図を見ると、最近1万年の気候は異常に安定しているように見える。サピエンスはたまたま異常に安定した温暖な気候のもとで生き延びたと思うと、今後はどうなるのだろうか。最終氷期みたいな気温変化では、食糧生産はどう確保したらいいのかと考えてしまう。今の安定した気候は、はたしてこのまま続くのだろうか。

戦争をひきおこすもの、戦争がもたらすこと:「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」加藤陽子

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

ふた月ほど前の2月15日に、某大使がインタビューに答え「軍事技術的な措置」の可能性について述べていたが、公式発表では「特殊軍事作戦」となったようだ。実際にはまぎれもない「戦争」であり、現在も進行中の恐ろしい惨禍となっている。

なぜ戦争になってしまったのか、そして、ロシアは何をもたらそうとして戦争を行っているのか。そう思って本書を読むと、いろいろ考えさせられる。

本書を読むと、戦争は「歴史の誤用」(本書朝日出版社版、p68)によって起こりうると思う。例えばロシア指導部は2014年のクリミアの経験を「誤用」したと思う。そして戦争は最終的には相手国の「国体」(p45)、憲法秩序の変更を要求することになる。もちろん、こんな意味の戦争は現代の国際法では禁止されている。でもロシアの意図しているところを見ると、ウクライナ憲法秩序そのものの変更を要求している。さらに最近では、ウクライナ自体の消滅を意図しているのではないかと見えてきたので、とても気持ちが悪くなる。

現代の国連が主導する世界秩序は、核兵器を多数所有するような大国は安保理常任理事国となって秩序の維持に尽力することが前提となっているはずである。今回の事態は、そのような前提が崩れ去ったことを意味する。ウクライナ政府がもし戦争の冒頭で崩壊し降伏していたら、このことは以前のクリミアのようになんとなく隠蔽され、もしかしたらすべての国が見て見ぬふりをしてしまうこともあったのかもしれない。しかし今やすべてが顕わになった。

この事態は今後どうなっていくのか。1930年代日中戦争の中国指導層は、アメリカとソビエトを巻き込んで最終的に勝つために徹底抗戦を貫いた、というのが本書の見立てである。一方で対する当時の日本政府と世論は、戦争とは思わず警察行動の延長、特殊軍事作戦と捉えていた(暴支膺懲)。今回の戦争も似たような構図になっていると思うが、そう考えてしまうのは歴史の誤用だろうか。

老いてからすること:「らーめん再遊記」久部緑郎・河合単

らーめん再遊記(4) (ビッグコミックス)

若い人々の活躍を描いた前二作とはうって変わり、衰えと引退を意識した初老男たちの話になったので、がぜんと興味が出てきた。

年寄りになったら、金と権力はさっさと若い人に譲り渡して、

好きなラーメンを好きに作りたいだけの、イカれたラーメン馬鹿だっ!!」(1集、p132)

と、いちラーメン職人に戻る展開がいい。どうせ老害なんだから、この方向に行くのが一番あこがれる。老いても評論家になるのでなく、若い人たちにかける迷惑を少なくしつつ「作る人間」であり続けられるかどうか、それが大事なことだ。

いちラーメン職人に戻ったら、新たな目標を目指して彷徨を続けるのがまたいい。それをやり続けていると、

もう俺のラーメンの中に、俺はいないんだよ。」(4集、p44)

ということになるのだ。何者かになろうとすることから解放され、自由になる。それは、目の前にいる誰かが喜ぶことをするという意味では自由ではない。でも年をとったらそれでいいと思う。

さてこの物語は、老いたあとに来る死を描くことはあるのだろうか。

宇宙は有機物と水でいっぱい:「地球外生命」小林憲正

 

子供のころ、バイキングの火星着陸のニュースは息を飲んで観ていた。新聞の一面を全部使って、赤茶けた地表と青空の電送写真が掲載され(何かの理由で後で青空はピンク色の空に修正されたが)、まるで地球みたいだとびっくりした。でもその後の生物探査実験の結果は惨憺たるもので、有機物もろくにみつからず火星は死の砂漠だとわかり、とてもがっかりした。

本書を読むと、このがっかり感は当の宇宙開発業界でも相当なものであったようで、その後20年間、火星探査は停滞してしまった。しかしバイキング探査以後半世紀近くがたち、生物の在り様や宇宙環境に対する見方は一変した。

まず、光を必要としない化学合成の生物が地球の深海や地下で次々に発見され、従来の「古典的生物圏」は広大な「暗黒生物圏」を含むものに拡張された。これによって光や環境温度、大気組成に関する生物の存在条件は大幅に緩和され、惑星系で生物が存在しうる条件であるハビタブルゾーンが「拡張ハビタブルゾーン」として、より広範なものとして再定義された、

そして、ヴォイジャー(1970-1980年代)、ガリレオ(1990年代)、カッシーニ(2000年代)などによる木星土星の集中的な探査により、エウロパ、ガニメデ、エンケラドゥス衛星の地下に全球スケールの液体の海があることが発見された。ケレスなどの小惑星にも液体の水があることがわかっている。冷たくて水もなく何もいないと思われていた外惑星系は「拡張ハビタブルゾーン」に含まれることになったのだ。さらに、水ではなくメタンを溶媒とする生命が考えられるならば、メタンの雨が降りメタンの川となってメタンの湖にそそぐ天王星の衛星タイタンにも生物がいる可能性がある。

興味深いのは、地球の生命のもととなった有機物は地球以外に宇宙にも起源をもつ可能性が大きいことだ。原始太陽系の環境は有機物の生成に適していたようだ。原始太陽系環境の片鱗を残しているだろう彗星や小惑星の探査も、生命の起源の解明につながる可能性がある。

思っていたより宇宙は、生命の発生に適している。少なくとも知的生命の存在よりずっとその確率は高そうだ。電波通信可能な知的生命の存在惑星数を示すドレイク数NはN=0.005L(Lは文明の平均継続年数)であるとすれば、生命の存在惑星数を示す拡張ドレイク数はN`=0.5L`(L`は生命の存続年数)と示すことができる(本書p199)。今のところ地球しか実例がないので、L=200年をいれるとN=1、つまり私たちだけが電波通信可能な知的生命となるが、L`=38億年(p62)をいれるとN`=19億となる。地球外生命の発見は時間の問題だろうと思う。

生命は宇宙にありふれているといえそうだし、いったん生まれれば完全に死滅することはないだろうが、個々の生物種の存続年数はずっと短い。知的生命が見つかりそうもない現状は、文明の存続年数はあまり長くないかもしれないと示唆している。知的生命が私たちの他に存在するとしても、この宇宙で出会うのはかつて存在した知的生命の遺跡か、私たちより若く電波交信しない文明ばかりなのかもしれない。