「実体経済」における貨幣の役割: 「リフレが日本経済を復活させる」 岩田規久男 浜田宏一 原田泰

最近の政府・日銀のリフレーション(リフレ)政策の採用に合わせて、いわゆる「リフレ」派に属する経済学者たちがリフレ政策について解説する本が出版された。9名の執筆者がそれぞれ8個の章を書き分けているが、共通する話題は、実体経済における貨幣の役割である。もともと古典派の経済学では、貨幣は名目価格を決めるだけで、実体経済に影響を及ぼさないとされ、長期ではそれが成り立っていることは経済学者の間で異論がない。しかし、短期で貨幣がどのような影響を及ぼすかについては様々な議論がある。リフレ政策は、短期に貨幣供給量の増加を促し「デフレ脱却のためにゆるやかで安定的なインフレ率を目指すことによって、雇用と生産を回復させ、安定化する政策である」(p9-10)。ここで言うところの「短期」は、2年程度であるとみてよい。実際、現在の日銀は、2年後にインフレ率を2%前後にすることを約束している。本書の読みどころとして関心があったのは、以下の話題である。

1. マネタリーベース操作は、予想インフレ率を変化させるのか (第1章、第2章、第7章)
中央銀行が直接操作できるのは、貨幣を増やす(マネタリーベースを増やす)ことだけである。供給された貨幣が市中に流通していくとは限らない。しかし、マネタリーベース増減は、資本市場や外国為替市場の参加者の予想インフレ率に働きかけることはできる。また、ゼロ金利のもとでは、短期国債と貨幣の価値はほぼ同じなので、短期国債を買い入れても金融緩和の効果は非常に弱いものになるが、より長期の国債金利は依然としてプラスであり、長期国債の買い入れは確実に金利を引き下げる効果がある。株式を買い入れるなどして資産市場の価格を上げることは、企業の投資を促す効果がある。マネタリーベース操作によって結果として生じた為替レートの変化が、緩和効果を生むこともある。

2. 数%の低インフレを維持することの意義 (第7章)
1990年にニュージーランドがはじめてインフレ目標を採用して以来、多くの国々がインフレ目標政策採用に踏み切っている。過去20年以上の実績から、数%の低インフレが実質成長率の上昇に寄与することが明らかになっている。インフレ目標政策は、市場参加者の金融政策に対する信頼を高めることで金融政策を効果的にする。さらに、インフレ目標政策は、政府と中央銀行が協調しデフレと高インフレをともに防ぐことを要件としており、財政規律の維持に寄与する。

3. 金融緩和はバブルをひきおこすのか(第4章、第7章)
バブルとは、現実の資産価格のうち、ファンダメンタルズ(資産が将来生み出す収益の現在割引価値の総和)から乖離して上昇している部分と定義される。バブルの存在条件は、経済成長率が、バブル資産の価格上昇率より高いことである。そうでないと、バブル資産を需要する側の購入資金がいずれ不足し、バブルを維持することができなくなる。最近のモデル研究は、金融緩和は、それが経済成長率を押し上げる場合に、結果としてバブルをひきおこしやすくすることを示唆している。興味深いのは、バブルの発生は、経済成長率だけでなく、金融市場の不完全性にも依存することである。金融市場がある程度機能しないと、そもそもバブルは生じない。一方、金融市場がきわめて効率的に機能すれば、生産性の高い部分に十分に資金が供給され、バブルが生じやすい低生産性の部分に資金が過剰に供給されることは無いため、バブルは生じにくくなる。注目するべきは、同じモデル研究が、民間によるバブル資産の保有状況は、事前の適切な政策対応(プルーデンシャル政策)によって制御することが可能であることを示している点だ。ただし、バブルを制御するプルーデンシャル政策にマクロ金融政策を割り当てることはするべきでない。これは、日本が、マクロ金融政策によってバブルを崩壊させた後に経験した長い経済停滞の教訓でもある。

4. 財政政策は有効か(第6章)
1990年代後半以降のマクロ経済指標間の関係を統計モデル化したところ、政府支出の増加が為替レートの変化を通じて経済活動に及ぼす影響(マンデル=フレミング効果)は観察されない一方で、土木・建設事業を主とする政府支出の増加は、民間事業を抑制させる影響があったことが認められた(生産力クラウディング・アウト)。このことは、従来の財政政策が経済活動水準を引き上げず、かえって民間事業に活用されるべき生産能力(人的・物的資源)を政府事業にシフトさせているだけであることを意味する。民間事業を抑制しない財政政策(減税、土木・建設事業目的ではない公的雇用の増加、公的給付の増加など)を実行すれば、マンデル=フレミング効果が生じる可能性があり、そのときこそ金融政策との協調が必要になる。

この論点は、戦前に、高橋是清によるリフレ政策の後で、増税を伴う軍事関係の政府支出の拡大が民間事業の生産力をクラウディング・アウトしていったことを考えると、現在のリフレ政策の成否を占ううえで、とても重要だと思う。財政政策の効果は、「財政政策の中身が悪いのか」、それとも「財政支出が効かないのか」を慎重に切り分けて検討されていくことが望まれる。

5. 従来の日本銀行の政策は何を目標としていたのか(第1章、第5章、第7章)
日銀が従来行ってきた量的緩和政策は、民間銀行の破綻を防ぎ金融システムを安定化させたが、デフレを脱却させることはしなかった。デフレの長期化によって民間銀行の国債保有が増加することで、デフレ脱却に伴う国債金利の上昇が、国債運用にその収益を過剰に依存する一部の民間銀行を破綻させる可能性が生じている。従来の日銀があえてデフレ脱却に踏み込まなかった理由は、日銀が、景気変動を安定化させるインフレ率の実現ではなく、現状の金融システムを安定化させることを最大の政策目標としていたからではないか、と考えられる。このことは、現状の日銀法における日銀の政策目的の妥当性を、改めて議論していく必要があることを強く示唆している。

6. 現在のマクロ経済学では貨幣はどのような役割を与えられているのか(第1章、第3章、第8章)
現代のマクロ経済学モデルは、いわゆる「新古典派」の「実物景気変動モデル」を出発点としており、そこには貨幣は含まれていない。ただし、実証分析の積み重ねにより、「短期」においては貨幣の役割を無視することはできず、「実物景気変動モデル」に貨幣を導入した「ニュー・ケインジアンモデル」がより現実的だという考え方が生まれた。現在の価格がなかなか変化しない一方で、貨幣供給の変化がひきおこす予想インフレ率の変化は、「短期」的には実物経済に影響を及ぼすのである。

7. 日本のケインズ主義に貨幣理論がないのはなぜか(第8章)
日本の経済学者、特にケインズ主義に拠る経済学者は、貨幣数量理論=インフレ・デフレが通貨供給量の変化によって生ずる、という考え方をとらない傾向がある。これは、日本の経済学において、マルクス主義や開発主義(経済発展において国家の直接的な介入を積極的に評価する考え方)が大きな影響力を持っていたことと無関係ではない。市場経済の失敗を問題とするマルクス主義・開発主義の影響は、市場経済の役割の軽視、特に資産市場の軽視につながる。さらに米国では日本に比べ、経験的証拠を重視する傾向が強く、そのことが近年、米国において貨幣の役割の再評価をもたらしている。

本書は、以上でとりあげた論点の他にも、日銀のリフレ政策採用に合わせた様々な興味深い議論を扱っており、非常に時宜を得た出版であるといえる。

第4章にいくつか誤植がみられたので、記録しておく。本書が版を重ねて、修正されることを期待したい。
(1) p128, L5: 「ならい」->「ならない」
(2) p131, L9: 「仮定よりに」->「仮定により」
(3) p131,最終行: 「クラウド・イン」->「クラウド・アウト」
(4) p134, L8: 「CKのよって」->「CKによって」