科学の大陸:「南極大陸」 キム・スタンリー・ロビンスン

南極大陸〈上〉 (講談社文庫)

南極大陸〈上〉 (講談社文庫)

南極大陸〈下〉 (講談社文庫)

南極大陸〈下〉 (講談社文庫)

地球温暖化の影響を受けて変容しつつある南極大陸を舞台に、様々な立場の人間がぶつかり争うなかで、登場人物のそれぞれが、いやおうなしに南極と人間の関わりについて考えさせられることになる、という話である。南極にはもともと人間が定住していなかったので、近代以降、南極にまず人間が上陸して探検することから南極と人間の関わりが始まった。現代では主に科学調査を名目として、各国の基地が散在している。南極大陸はなんといっても第一に科学研究の対象である。本書ではこれに加え、アムンセンなどの偉大な先人の探検の跡をたどる、といった観光ツアーの対象となっている状況が語られる。さらに、地下資源開発のためであれ何であれ、南極で人間が定住することはできるのか、という興味深い問いが本書で投げかけられる。

作者自身がこの小説を書く目的で、全米科学財団の助成を受けて南極に滞在したこともあり、南極の描写は迫力満点である。出てくる人物像も多彩で魅力的だ。環境テロリストの描像は、なかなかに興味深い。「無垢な南極」が、彼らにとって信仰の対象となっている。また、汚染やリスクがゼロかゼロでないかに関心を集中させる二分的な思考様式は、現代のある状況にも通じるように思う。これに対し、作者は、中国人の風水師や、バーニー・サンダース氏のような上院議員とその秘書、南極に定住しようと考える人々などをつうじて、行動が引き起こすリスクとメリットが連続的に変化する状況を受け入れる思考様式を対置しており、共感させられる

科学者や科学の営みの描き方も魅力的だ。

しかし安定説の支持者のほうは、まじめな科学者だよ。自分たちの仮説を証明するために、毎シーズン、南極にやってきてはデータを集め、学術雑誌に論文を発表している。彼らはまちがっている、と私は思う。だが、彼らはそれでも科学者だ。多くの学者、いや大半の学者がまちがっているだろう。運がよくて定説となったものを守るために、あえて異論をとなえる役割をになっているにすぎない。」(上巻p235-236)

行為の善悪の問題ではないのだよ。科学というものは、自分がしめしたいものをしめす、あるいは自分がしめすものは重要なのだと知らしめるのに効果をもつ同盟関係をつくることにある。」(上巻p410)

科学はひたすら真理を追究する自動人形ではなく、何がしかの事実をブラックボックス化しようと躍起になる生身の人間の問題だ。」(上巻p410)

そのとおりだと思う。だから科学には多様性が必要なのだ。選択と集中ではなく、多様性こそが科学を前進させるのだ、と強く思う。

ところで、本書に登場する女性登山家の人物像は、学生時代を思い出させる。。。

男はみんなそうだ。彼女を値踏みしては、チア・リーダータイプでちょろい相手、自分ほど知識はないが、自分がたっぷり経験した雄大な世界に興味をもち、話をおねだりしていると思いこむ。くだらないの一言だ。」(上巻p261)

懐かしいなあ。