「である」ことの価値:「日本の思想」丸山真男

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

岩波新書「日本の思想」には、論説文体の2編に加え講演から書きおこした文章が2編収められていてこちらはより親しみやすい。特に「「である」ことと「する」こと」は昔から人気がある一文である。

昔、この文章を読んだときは、自由な民主主義社会においては社会の様々な制度や認められた権利を固定したものとして安易に前提とせず、そのあり方を不断に問い続けるという「する」ことの価値が重要であると書いてあるとしか読みとれなかったように思う。今読んでみると「である」ことと「する」ことのそれぞれが大事な局面があり、両者の混同(倒錯)を問題にするという趣旨があったとわかる。

著者は「である」ことの価値が大事な例として芸術や文化をとりあげており、「である」ことの価値に基づいた「ラディカル(根底的)な精神的貴族主義」が「する」ことの価値に基づく「ラディカルな民主主義」と内面的に結びつくことが要求されているとしてこの一文を終えている。

今、「である」ことの価値について改めて考える。「する」ことではなく「である」ことの価値は、著者の言う「精神的貴族主義」よりもっとシンプルなところにあるのではないだろうか。例えば、たんに「日本国民である」ことや「アメリカ国民である」ことについてもっと価値を認めてもよいのではないだろうか。

今回のアメリカ大統領選挙トランプ大統領に投票した七千万を超える人々は「アメリカ国民である」ことにより重きを置いているようにみえる。「である」ことで充足する生活のあり方がもっと認められてもよいのではないだろうか。そのための社会の前提は、社会に経済的な余裕があること、とくに十分に経済成長していることだと思う。実際、トランプ大統領の経済政策は成長重視、雇用重視である。

「する」ことが自由な民主主義体制を維持発展させるために重要であることは、本書に述べられているとおりだ。それでも、「である」ことで幸せに生活することへの希望や願いはもっと重く考えられるべきだと思う。トランプ大統領がこのまま退場したとしてもアメリカではそうした人々の願いは強まりこそすれ弱まることはないだろう。たぶんここ日本においても。

都市形成のシミュレーションをしてみよう(3):「自己組織化の経済学」 ポール・クルーグマン

 

 7年前に掲載したエントリー

myzyy.hatenablog.comに興味を持っていただいた方のご要望により、このときに使ったシミュレーションのプログラムを公開する。Fortran90で書き、gnuplotで可視化した。LinuxMacOSなど、UNIX系のOSであれば、Fortran90はフリーソフトウェアのgfortranを使うことができると思う。gnuplotフリーソフトウェアでありすぐにインストールできる。Windows10でもgfortranやgnuplotは使えるようだ。一連のプログラムをコンパイルして実行ファイルにした後、実行する。

1) コンパイルのためのシェルスクリプト 

(make_1dkl1.sh という名前でコピーペーストして保存していただきたい)

コマンドライン

$ sh make_1dkl1.sh

と実行する。edge_city.1d.x という実行ファイルが作成される。

make_1dkl1.sh (1次元で求心力の及ぶ範囲が広い場合)

#! /bin/sh

PGM=edge_city.1d.x
F90=gfortran
F90OPT='-O3 -DKL1'

$F90 $F90OPT -c cal_inidens.F90
$F90 $F90OPT -c cal_potential.F90
$F90 $F90OPT -c edge_city.F90

$F90 $F90OPT -o $PGM *.o

rm -f *.o

 make_1dkl2.sh (1次元で求心力の及ぶ範囲が狭い場合)

#! /bin/sh

PGM=edge_city.1d.x
F90=gfortran
F90OPT='-O3 -DKL2'

$F90 $F90OPT -c cal_inidens.F90
$F90 $F90OPT -c cal_potential.F90
$F90 $F90OPT -c edge_city.F90

$F90 $F90OPT -o $PGM *.o

rm -f *.o

make_2dkl1.sh (2次元で求心力の及ぶ範囲が広い場合)

#! /bin/sh

PGM=edge_city.2d.x
F90=gfortran
F90OPT='-O3 -DTWODIM -DKL1'

$F90 $F90OPT -c cal_inidens.F90
$F90 $F90OPT -c cal_potential.F90
$F90 $F90OPT -c edge_city.F90

$F90 $F90OPT -o $PGM *.o

rm -f *.o

 他の場合も、プログラム名$PGMとプリプロセッサ―オプション-Dの場合分けでプログラムを別々に作成する。

 

2) プログラム

a) edge_city.F90 メインプログラム

ルンゲ・クッタ法で微分方程式の時間変化を離散化して表現(差分化)している。

プリプロセッサ―オプションでケース分けをしている。

-DKL1 (求心力の及ぶ反映が広い場合)

-DKL2 (求心力の及ぶ範囲が狭い場合)

-DTWODIM (2次元の場合)

-DKL2A47 (KL2の場合で、中心に求心力がはたらきその大きさがA=4.7)

-DKL2A48 (KL2の場合で、中心に求心力がはたらきその大きさがA=4.8)

program edge_city
!
#ifdef TWODIM
  integer, parameter :: im = 24, jm = 24
#else
  integer, parameter :: im = 24, jm = 1 ! 1D; also see cal_potential.f90
#endif
!
  real, parameter :: dt = 0.1
  real, parameter :: pi = 3.14159265
!
  real :: smooth, scale, presum, nowsum
  real :: A(im,jm), B(im,jm), dens(im,jm), r1, r2, gamma
  real :: potential(im,jm), potential_mean
  real :: tend1(im,jm), tend2(im,jm), tend3(im,jm), tend4(im,jm)
  real :: dens1(im,jm), dens2(im,jm), dens3(im,jm), dens4(im,jm)
  real :: mask(im,jm), dist, radius
  integer :: step, stepend
  character (len=5) :: cha
!
  mask(:,:) = 1.
  radius = im/2
  do j = 1, jm
    do i = 1, im
      dist = sqrt(float((i-im/2)**2+(j-jm/2)**2))
      if(dist > radius) mask(i,j) = 0.
    end do
  end do
!
  stepend = 100000
  scale = 1.
  smooth = 5.
  gamma = 1.

  A = 0.2
  B = 1.0
  r1 = 1.0
  r2 = 1.0

#ifdef KL1
  r1 = 1.4
  r2 = 0.2
#endif

#ifdef KL2
  r1 = 2.8
  r2 = 0.4
#endif

#ifdef KL2A48
  write(6,*) 'center A KL2C4'
  do j = 1, jm
    do i = 1, im
      A(i,j) = 4.8 * exp(-sqrt(float((i-im/2)**2+(j-jm/2)**2))*2.*pi/im*2.8)
    end do
  end do
#endif

#ifdef KL2A47
  write(6,*) 'center A KL2C5'
  do j = 1, jm
    do i = 1, im
      A(i,j) = 4.7 * exp(-sqrt(float((i-im/2)**2+(j-jm/2)**2))*2.*pi/im*2.8)
    end do
  end do
#endif

  do j = jm, 1, -1
    write(6,'(24(x,i3))') ((int(A(i,j)*10.)),i=1,im,1)
  end do
  write(6,*) 'r1 r2 A B ', r1, r2, A(1,1), B(1,1)
  write(6,*) 'r1/r2 A/B r2/r1 ', r1/r2, A(1,1)/B(1,1), r2/r1
  call cal_inidens(dens,mask,smooth,scale,im,jm)
  do j = jm, 1, -1
    write(6,'(24(x,i3))') ((int(dens(i,j)*100.)),i=1,im,1)
  end do
!
  presum = 10.
  do step = 1, stepend
    call cal_potential(potential,potential_mean,dens,mask,A,B,r1,r2,im,jm)
    tend1(:,:) = gamma * (potential(:,:) - potential_mean) * dens(:,:)
    dens2(:,:) = dens(:,:) + 0.5 * dt * tend1(:,:)
    call cal_potential(potential,potential_mean,dens2,mask,A,B,r1,r2,im,jm)
    tend2(:,:) = gamma * (potential(:,:) - potential_mean) * dens2(:,:)
    dens3(:,:) = dens(:,:) + 0.5 * dt * tend2(:,:)
    call cal_potential(potential,potential_mean,dens3,mask,A,B,r1,r2,im,jm)
    tend3(:,:) = gamma * (potential(:,:) - potential_mean) * dens3(:,:)
    dens4(:,:) = dens(:,:) + dt * tend3(:,:)
    call cal_potential(potential,potential_mean,dens4,mask,A,B,r1,r2,im,jm)
    tend4(:,:) = gamma * (potential(:,:) - potential_mean) * dens4(:,:)
    dens(:,:) = dens(:,:) + dt/6. * &
 &               (tend1(:,:) + 2.*tend2(:,:) + 2.*tend3(:,:) + tend4(:,:))
    dens(:,:) = dens(:,:)/sum(dens)
    nowsum = 0.5*(sum(dt * abs(tend1)) + presum)
    if(nowsum < 1.e-6) exit
    if(mod(step,100) == 0) then
       write(6,*) 'step ', step, nowsum, presum, sum(dens)
       do j = jm, 1, -1
         write(6,'(24(x,i3))') ((int(dens(i,j)*100.)),i=1,im,1)
       end do
       call flush(6)
    end if
    presum = nowsum
    if(mod(step,100) == 0) then
      write(cha,'(i5.5)') int(step*dt)
      open(10,file='stepdt.'//cha//'.txt',form='formatted')
      do j = jm, 1, -1
        write(10,'(24(x,f10.7))') (dens(i,j),i=1,im,1)
      end do
      close(10)
     end if
  end do
!
  write(6,*) '### dt end ', sum(dt * abs(tend1))
  write(6,*) '### step tend dens ', step, sum(abs(tend4)), sum(dens)
  do j = jm, 1, -1
    write(6,'(24(x,i3))') ((int(dens(i,j)*100.)),i=1,im,1)
  end do
  open(10,file='stepdt.final.txt',form='formatted')
  do j = jm, 1, -1
    write(10,'(24(x,f10.7))') (dens(i,j),i=1,im,1)
  end do
  close(10)
!
  end

b) cal_inidens.F90 初期値作成

  subroutine cal_inidens(dens,mask,smooth,scale,im,jm)
!
  integer, intent(in) :: im, jm
  real, intent(in) :: smooth, scale, mask(im,jm)
  real, intent(out) :: dens(im,jm)
!
  real :: ran(im,jm), sum
  integer :: i, j
!
  sum = 0.
  call random_number(ran)
  do j = 1, jm
    do i = 1, im
      dens(i,j) = (ran(i,j) + smooth) * scale * mask(i,j)
      sum = sum + dens(i,j)
    end do
  end do
  dens(:,:) = dens(:,:) / sum
!
  return
!
  end subroutine cal_inidens

c) cal_potential.F90 動学モデル(1)の右辺にある項(2)の計算を行うサブルーチン

  subroutine cal_potential(potential,potential_mean,dens,mask,A,B,r1,r2,im,jm)
!
  integer, intent(in) :: im, jm
  real, intent(in) :: A(im,jm), B(im,jm), dens(im,jm), mask(im,jm), r1, r2
  real, intent(out) :: potential(im,jm), potential_mean
!
  real :: dist, dist1, dist2, dist3
  integer i, j, m, n
  real, parameter :: pi = 3.14159265
!
  potential(:,:) = 0.
  potential_mean = 0.
  do j = 1, jm
    do i = 1, im
       do n = 1, jm
         do m = 1, im
#ifdef TWODIM
           dist = sqrt(float((n - j)**2 + (m - i)**2))*2.*pi/im
#else
           dist1 = sqrt(float((n - j)**2 + (m - i)**2))*2.*pi/im
           dist2 = sqrt(float((n - j)**2 + (m-im -i)**2))*2.*pi/im
           dist3 = sqrt(float((n - j)**2 + (m+im -i)**2))*2.*pi/im
           dist = min(dist1,dist2,dist3)
#endif
           potential(i,j) = potential(i,j)               &
 &                         +(A(i,j) * exp(-r1 * dist)    &
 &                           - B(i,j) * exp(-r2 * dist)) &
 &                          * dens(m,n) * mask(i,j)
         end do
       end do
       potential(i,j) = mask(i,j) * potential(i,j)
       potential_mean = potential_mean + potential(i,j) * dens(i,j)
    end do
  end do
!
  return
!
  end subroutine cal_potential

3) 可視化シェルスクリプト

a) tplot.sh (1次元) ($ sh tplot.sh を実行すると、時間変化を含めてすべての状態を可視化する)

#! /bin/sh

cat stepdt.0*.txt > stepdt.all.txt

EPS=tplot.eps
PNG=tplot.png

STEP=all
GNP=tplot.gnp
cat <$GNP
  set output '$EPS'
  set term postscript eps enhanced color 12
  set view 60,300
  set ticslevel 2
  set pm3d at sb
  set cntrparam bspline 
  set palette rgbformulae 22, 13, -31
  set xtics font 'Helvetica,24'
  set xlabel 'position'
  set xlabel font 'Helvetica,24'
  set ytics font 'Helvetica,24'
  set ylabel 'iteration (X 100)'
  set ylabel font 'Helvetica,24'
  set nokey
  splot 'stepdt.$STEP.txt' matrix with lines
EOF

gnuplot $GNP

convert -trim $EPS $PNG

b) splot.sh (2次元) ($ sh splot.sh 002760 などとして実行する。各ステップ数のスナップショットを描画する)

#! /bin/sh

STEP=$1
EPS=splot_$STEP.eps
PNG=splot_$STEP.png
GNP=splot.gnp
cat <$GNP
  set output '$EPS'
  set term postscript eps color
  set view 60,15
  set ticslevel 2
  set pm3d at sb
  set cntrparam bspline 
  set palette rgbformulae 22, 13, -31
  set xlabel 'position'
  set xlabel font 'Helvetica,24'
  set xtics font 'Helvetica,24'
  set ylabel 'position'
  set ylabel font 'Helvetica,24'
  set ytics font 'Helvetica,24'
  set nokey
  splot 'stepdt.$STEP.txt' matrix with lines
EOF

gnuplot $GNP

convert -trim $EPS $PNG

「理論信仰」でもなく「実感信仰」でもなく:「日本の思想」丸山真男

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 今から60年ほど前、当時の日本の思想的状況について論じた古典的名著である。高校時代に戸田忠雄先生から現代社会科目の「夏休みの読書」の課題として教示いただいて以来、久しぶりに読んでみた。

今読むと、本書で言うところの「理論信仰」でもなく「実感信仰」でもない、理論と現実のせめぎあいの結果生まれてくる科学的思考の手続きについて著者が主張しているところがとても印象に残る。

「既知の」法則の例外現象に不断に着目して、そこに構想力を働かせ、仮説を作って経験によるトライアル・アンド・エラーの過程を通じて、この仮説を検証して行くという不断のプロセスとして方法の問題を考える。この「理論」は唯一でも絶対でもないから、つねに新しい経験に向って「開かれ」ていて、多くの人の経験(実験)を集団的に組合せることが尊重される。(本書、p96)

これは科学者の共同体の中では昔も今も日々行われている営みである。この共同体の一歩外に出て科学と社会全般とのかかわりが生じる局面では、容易に「理論信仰」や「実感信仰」の罠に捕われることが多いのは現代の日本でもまったく同じだ。特に、金融緩和や財政危機に関する議論、原子力発電に関する議論、感染症に関する議論においてそのように感じる。科学者の共同体が分野ごとに「タコツボ」(p129)化し、相互のやりとりが少ないままそれぞれ海外の各分野共同体と地続きにつながっている状態もまったく変わりがない。

本書が書かれた時代と異なるのは、「否定すべからざる自然科学の領域」(p54)というほど自然科学への信頼がもはや強固ではないことか。そして科学と社会とのかかわりから見ると、「官僚制合理主義」(p95)に由来する「理論信仰」の巨大な影響力が無視できない状況になっている。これによって、選択と集中による科学諸分野への投資配分のあり方の変更がもたらされている。

理論と現実のありうべき関係については、著者自身による説明がとても心に響く。

理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の廣野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を換び起すのである。(p60)

そのとおり!としか言いようがない。しかしこれを実践するのは難しいのである。むしろそんなことはしないで、「いろいろな範疇の「抽象的な」組合わせによる概念操作」(p58)に熱中するほうがずっと楽しいのだ。

温暖化に支えられた「馬の世界」の繁栄:草原の制覇:大モンゴルまで

 
 

岩波の新しい中国史シリーズの第3巻は、中国華北地方の北に広がる広大な草原世界にかかわる国々の興亡に焦点を当てている。

一読して目を引かれるのが、隋唐の大帝国は、秦漢の中華帝国の伝統を引き継ぐとともに騎馬遊牧民の出自をもった一連の系譜「タブガチ国家」の頂点なのだということである。騎馬遊牧民の機動力なくしてあの大版図は決して実現されえなかった。唐の李氏は中華皇帝であるとともに、草原世界を束ねる可汗でもあった。

もうひとつの読みどころはトルコ系民族(テュルク人)の活躍である。10世紀以降、テュルク人は草原の西方に展開しトルキスタンを形成しセルジューク大帝国を建設するとともに西方の国々で傭兵(マムルーク)として活躍するが、東方でも「沙陀」として中原に進出し騎馬遊牧民としての機動力を背景に政局の鍵を握る。最終的に五代十国の分裂を克服し中国を再統一する宋王朝も沙陀軍閥から生まれており、一連の「沙陀」系王朝のひとつとみなすことができるのである。

十世紀から十二世紀にかけて次々に騎馬遊牧民族の王朝が立ち上がるが、その最初となったのが「契丹」である。彼らのユニークなところは、タブガチのように中原に浸透し漢化するのではなく、北方で独自性を保ちながら安定的な国家体制を建設したことである。彼らの後に興った女真もモンゴルもそれにならっている。興味深いのは華北から契丹の版図にやってきて植民する農耕民が数多くいたことである。これは当時生じていた温暖化によって農耕可能な領域が北上していたことが関係していると思う。逆に三世紀にタブガチをはじめとする遊牧民華北まで南下したのは当時の寒冷化の影響による。

一連の騎馬遊牧民族王朝の最後にモンゴルが興り、ユーラシア全域にまたがる大統合を実現する。ユーラシア北方の「馬の世界」は南方の「船の世界」と密接に結合されその繁栄をきわめる。しかしこの繁栄も「十四世紀の危機」をもたらす寒冷化によって終わりを迎える。以後、歴史を動かす重心は「馬の世界」に戻ることはなく「船の世界」に移る。十七世紀にモンゴルに匹敵する規模の大統合を実現する女真は、世界的な「大交易時代」の流れに乗って富を蓄積した商業・軍事勢力だったのである。

「一君万民」と「人つなぎ」の間で:「江南の発展」丸橋充拓

 

江南の発展: 南宋まで (岩波新書)

江南の発展: 南宋まで (岩波新書)

ひとくちに中国といってもその範囲は広大である。現在の中華人民共和国が支配している領域はヨーロッパ全体に匹敵するほどであり、その中の各地方がたどってきた歴史も多様である。中国大陸の中心部は主に漢民族が住んでいるが、これを大きく黄河周辺(中原)と長江周辺に分け、後者を「江南」として特徴づけ13世紀の南宋滅亡まで歴史をたどるのが本書である。

江南の地は古代から楚・呉・越などの国々の故地であり中原に対して独自性を保ち未開拓の領域も広かったが、4世紀になって中原が異民族の侵入によって混乱するとこれを逃れて南下してきた人々の手によって従来にない規模での開発が始まる。10世紀の「唐宋変革」(本書 p103)時代には中原と江南の人口比が逆転し、巨大な生産力によって中原の経済を支えるようになる。

「唐宋変革」は、中原でつくられ江南にまで及んだ「古典国制」(p25)が標榜する専制支配体制である「一君万民」(xii)が変質していく方向を決定づけた社会変動であった。「唐宋変革」では皇帝独裁体制が強化されるもののそれは政府組織の中だけのことであって、兵制の面(府兵制から募兵制へ)からいっても税制の面(均田・租調役制から両税法へ)からいっても政府組織が個人個人を把握する度合いは弱まるのである。

その影響が強く現れた江南では、本書で言うところの「幇の関係」(xiv)という人つなぎの論理が社会に浸透していき、きわめて社会的流動性の高い社会となっていく。「幇の関係」は個人的信頼に基づく非公式な人間関係であり、これと「一君万民」のせめぎあいが現代にいたるまでの中国史を特徴づけているといえる。

中国では個人個人の行動様式を規制する中間団体が弱く個人的信頼に基づく「幇の関係」が重視されるという。個人は中間団体に保護されることもないかわりに「村八分」的なことも起こりにくいわけで、現代の独裁国家による支配という外見とは裏腹に普段の生活レベルではむしろ自由にふるまっているということだろうか。

本書が第二巻となる新しい中国の歴史シリーズはすべて面白く全巻夢中で読んでしまった。「一君万民」と「幇の関係」の対比も面白いが、中国を「中原」「中華」だけではなく、北方の馬の世界と南方の船の世界がぶつかりあうところとしてとらえるという視点も刺激的である。本書で最初に出てくる12世紀の歴史地図(iv)が鮮烈な印象を与える。さらに地図を南北にひっくりかえしてみると、船の世界としての中国が海へ出ていくにあたって南シナ海がしごく自然な出口になっていることがよくわかるのである。

f:id:myzyy:20201018211544p:plain

 

 

明末、清末、現代の中国:「陸海の交錯」壇上寛

陸海の交錯 明朝の興亡 (シリーズ 中国の歴史)

陸海の交錯 明朝の興亡 (シリーズ 中国の歴史)

  • 作者:檀上 寛
  • 発売日: 2020/05/21
  • メディア: 新書
 

 中国は「近くて遠い国」(本書、i)である。最近は多くの中国人が日本にやってきて勉強したり働いたりするようになった。身近にもそのような人たちが数多くいる。ほとんどの人たちは日本語も流暢に話し、姿かたちも日本人と変わらないので、何となく彼らの故郷の中国本土も日本と同じような感じがしてしまう。中国に行っても都会は日本と変わらない雰囲気だ。

しかし実際の中国はとても広く、様々に異なる文化、言語をもった人々が住んでいる。それ自体ひとつの巨大な世界である。それなのに、中国の歴史は、紀元前の秦漢に始まる巨大な中華帝国による一元的な専制支配がずっと続いてきて、現代の中華人民共和国に至っているように思ってしまう。

本書が4巻目となるシリーズ「中国の歴史」は広大な中国の歴史を、多元的な世界の広がりと中華への一体化とのせめぎあいとして捉え、最新の知見を盛り込んでたんなる王朝交代の歴史ではなく斬新な歴史区分で捉えていて大変面白い。しかし本書だけは、一王朝である明帝国の興亡に焦点を当てたユニークな構成になっている。

というのは、明帝国が、「①中華と夷荻の抗争、②中国史を貫く華北と江南の南北の対立、③草原を含む大陸中国と東南沿海の海洋中国の相克。」(本書、vii)の軋轢が頂点に達した「14世紀の危機」(本書、v)の結果として成立した王朝であり、前の1-3巻で示されたこれらの視点の総決算であるといえるからである。

総決算はしかし、「明初体制」(本書、vi)と呼ばれる硬直的な専制支配の体制確立という形でなされることになった。明初体制は「14世紀の危機」で荒廃した国土と社会を再建する緊急対応としての役割を果たしたが、復興のあとは次第に弛緩していき、「17世紀の危機」(本書、v)により崩壊することになる。

明末の混乱は、広大な国土に住む人々の実際の多様な生活と専制支配体制の決定的な乖離として現れ、その後の清王朝によって一時収拾されるものの、18世紀の人口爆発を経た清末に至って外国勢力の介入を伴ったさらにスケールの大きな混乱に至る。清末の混乱は中国共産党による閉鎖的な体制確立によって収拾されたが、その後の経済開放を経て再び混乱の予兆が現れているように感じられる。

中国出身の知人に聞くと、中国政府(共産党)は相変わらず雲の「上」の存在であるが、それに比べれば日本政府は行政サービスを提供する存在として「下」にあるように感じられるほどだという。上からの支配と下々の生活の決定的な乖離という明末の課題は清末に持ち越されたが、さらに現代にまで持ち越されているということなのだろうか。

「宝島」の夢:「80's エイティーズ ある80年代の物語」橘玲

 

1985年、友達にはじめて「 別冊宝島」のある号を見せてもらったときは、とても新鮮な感じがした。小阪修平氏らによる明快でわかりやすい文章は、当時の西欧「現代思想」が西欧近代の伝統的な人間観を解体しゼロから考え直そうとしている、と強く訴えかけてきた。本書を読み、「知識を道具に」という斬新なコンセプトで「別冊宝島」を始めた編集者が石井慎二氏だということを知った。

本書は、石井氏に誘われ1985年から1995年にかけて「別冊宝島」や「宝島30」の編集を手がけた元編集者による当時の回想記だ。「出版業がいちばん勢いがあった時代」(本書、p141)で「本はつくれば売れるもの」(同)という時代の雰囲気がよく伝わってくる。たとえ今は忙しいわりに収入が少なくても、未来には確実に市場が拡大し収入が増えると予想できた時代である。

本書の終わりは、1995年、阪神淡路大震災オウム真理教事件が起こった年である。著者はこれ以降編集者をやめ、作家になる道を選んでいく。やがて今日に至るインターネットとデフレ不況の時代となり、出版業界は勢いを失う。1995年は、個人的にもそれまでの楽観的な人生観が変わり自分の進路を変更するきっかけとなった年である。「気づかないうちに世界がまるごと変わってしまったー」(p213)という著者の実感に共感する。