「理論信仰」でもなく「実感信仰」でもなく:「日本の思想」丸山真男

 

日本の思想 (岩波新書)

日本の思想 (岩波新書)

 

 今から60年ほど前、当時の日本の思想的状況について論じた古典的名著である。高校時代に戸田忠雄先生から現代社会科目の「夏休みの読書」の課題として教示いただいて以来、久しぶりに読んでみた。

今読むと、本書で言うところの「理論信仰」でもなく「実感信仰」でもない、理論と現実のせめぎあいの結果生まれてくる科学的思考の手続きについて著者が主張しているところがとても印象に残る。

「既知の」法則の例外現象に不断に着目して、そこに構想力を働かせ、仮説を作って経験によるトライアル・アンド・エラーの過程を通じて、この仮説を検証して行くという不断のプロセスとして方法の問題を考える。この「理論」は唯一でも絶対でもないから、つねに新しい経験に向って「開かれ」ていて、多くの人の経験(実験)を集団的に組合せることが尊重される。(本書、p96)

これは科学者の共同体の中では昔も今も日々行われている営みである。この共同体の一歩外に出て科学と社会全般とのかかわりが生じる局面では、容易に「理論信仰」や「実感信仰」の罠に捕われることが多いのは現代の日本でもまったく同じだ。特に、金融緩和や財政危機に関する議論、原子力発電に関する議論、感染症に関する議論においてそのように感じる。科学者の共同体が分野ごとに「タコツボ」(p129)化し、相互のやりとりが少ないままそれぞれ海外の各分野共同体と地続きにつながっている状態もまったく変わりがない。

本書が書かれた時代と異なるのは、「否定すべからざる自然科学の領域」(p54)というほど自然科学への信頼がもはや強固ではないことか。そして科学と社会とのかかわりから見ると、「官僚制合理主義」(p95)に由来する「理論信仰」の巨大な影響力が無視できない状況になっている。これによって、選択と集中による科学諸分野への投資配分のあり方の変更がもたらされている。

理論と現実のありうべき関係については、著者自身による説明がとても心に響く。

理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の廣野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある断念と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を換び起すのである。(p60)

そのとおり!としか言いようがない。しかしこれを実践するのは難しいのである。むしろそんなことはしないで、「いろいろな範疇の「抽象的な」組合わせによる概念操作」(p58)に熱中するほうがずっと楽しいのだ。