経済学の方法論:「飯田のミクロ」 飯田泰之

飯田のミクロ 新しい経済学の教科書1 (光文社新書)

飯田のミクロ 新しい経済学の教科書1 (光文社新書)

経済学の基本的な思考法を教養として学ぶために、役立つ本であると思う。新書なので、電車の中でも気軽に読める。門外漢の素人が、興味本位で読むのにちょうど良い。理工系の勉強をしてきた筆者にとっては、今日の標準的な経済学は稀少な資源の最適配分を求める議論であり、制約付き最適化問題として定式化できる、という導入はきわめてわかりやすい。さらに本書は、このような経済学の目的の前提として、「方法論的個人主義」があることを指摘する。つまり、経済学は「稀少な対象について個々の経済主体が自身の主観的な満足度を最大化するように行動した結果としての経済活動・経済現象」を取り扱うからこそ、制約付きの最適化問題となるのである。

方法論的個人主義という仮定から、最適な資源配分に至るための行動は「他の誰の満足度も下げることなしに誰かの満足度を上昇させる」ものだ、ということになる(「パレート改善」)。そして、そのような行動の結果としての資源の最適配分は、「誰かの満足度を下げることなしには、誰かの満足度を上げることはできない」状態になっている(「パレート最適」)。主観的な満足度(「効用関数」)は金銭的な満足度に限られないし、パレート最適はかなり緩い基準なので、方法論的個人主義は経済学の適用範囲を相当広くするであろうことが、何となくわかる。市場経済における双方の同意に基づく財の交換や、社会的な分業は、まさに「他の誰の満足度も下げることなしに誰かの満足度を上昇させる」行為になるといってよいだろう。そして、完全競争市場における取引の最終結果である「競争均衡」はパレート最適な財の配分である(「厚生経済学の第一基本定理」)。パレート最適な配分はひとつではなくいくつもありうるが、そのうちどのようなパレート最適な配分であっても適当な初期配分の変更(財の交換)を行うことによって競争均衡として実現可能である(「厚生経済学の第二基本定理」)ことから、「計画経済に対する自由な取引に基づく市場経済の優位性」が導かれる。

パレート最適な結果は、取引する者すべてが満足できる可能性をもつものである。それならば、巷間いわれるところの、「構造改革」が一時的な「痛み」をもたらすものであっても最終的には効率的な市場を実現する、というのはパレート改善ではないのではないかと思う。一方で、方法論的個人主義は、再分配に関する議論を難しくする。裕福な人々の所得を減らして裕福でない人々に配分する行為はパレート改善である、と直ちにいえるものではないからだ。本書によって、経済学の議論を読んだり聞いたりする際には、どこまでが方法論的個人主義「のみ」による議論なのか、どこからがさらに追加的な価値観に基づくものなのか注意する必要があるということがわかる。

いずれにしても、自由な財の交換や分業によって資源の最適配分を実現する、という議論は、基本的には自分にとってはとても好ましいものであると感じられる。著者が標準的な経済学の議論の歴史的な出発点となったと指摘する「比較優位」は、生産性が劣る取引者であっても、社会的な分業に参加することによって全体としてより多くの生産達成に貢献できるという議論であると解釈でき、経済学の基本的な価値観を体現するものであることが実感できる。次に出版が予定されているマクロ経済学の入門書も読むのが楽しみである。