過渡期の宇宙SFならではの傑作:「さよならジュピター」 小松左京

さよならジュピター〈上〉 (ハルキ文庫)

さよならジュピター〈上〉 (ハルキ文庫)

いまから30年前の1984年に、日本SF界が総力をあげて日本独自の本格宇宙SF映画を作ろうとしたことがあった。その時に中心になったのが、当時、日本SFの第一人者であった小松左京であり、本書「さよならジュピター」は小松左京本人がその映画のシナリオをノベライズしたものである。当時、高校生であった自分は、完成した映画を結局見ることはなかったが、本書そのものはむさぼるようにして熱心に読んだ。本書は、たんなる映画のノベライズにとどまらず、それ自体が第一級の本格宇宙SFである。

本書の中心になるテーマは、小松左京が膨大な著作を通じて常に問うてきたといえる、この宇宙における人類の存在意義である。本書がとりあげている時代は22世紀の半ば、遠く冥王星まで人類の存在範囲はひろがり、地球外には数億の人類が居住し繁栄している。しかし、人類文明の母胎となった地球はあくまで優しく過ごしやすく描かれ、地球外の宇宙は人類にとってきわめて厳しい環境であることが強調されている。

小松左京は、いちど知的生命として人類が宇宙を見てしまった以上、宇宙に進出するのは必然である、と本書の主人公の口を借り強く主張している。この時代、人類にとって必要なエネルギーや富の大半をうみだしているのは、人類の管理による「公園惑星」と化した地球ではなく地球外の宇宙空間であるとされ、さらに偶然によって宇宙空間からもたらされた危機が、人類全体の生存を危機にさらす。本書では、宇宙に進出することなしには、人類の生存そのものがおぼつかなくなるような未来が描かれている。

本書が執筆された1980年代以後、サイバーパンク・ポストヒューマンSFが登場し、そこで宇宙に進出するのは、生身の人類ではなく人類の系譜を受け継ぎつつも基本的には非人間的な、古い地球の自然や文化にいっさい思い入れをもたない、機械知性や改造人間たちである。一方で小松左京は、本書において古い地球の自然や文化も魅力的に描いており、宇宙空間と地球の双方に思い入れがあるようである。その点で本書は過渡期の宇宙SFであるといえる。もちろん、小松左京がポストヒューマン的な立場に気付いていないはずはなく、本書でも機械知性や遺伝子改変による宇宙への適応が部分的に述べられている。(実際、本書以後の小松左京作品である「虚無回廊」では、宇宙に飛び出すのは生身の人類ではなく、機械知性である)

にもかかわらず、本書で小松左京は古い自然や文化への愛惜も存分に語ろうとする。この両義性が、自分にとってはたまらない魅力である。特に冬が終わり、多くの生き物たちが精気を取り戻すこの時期に本書を読むと、いっそうたまらない気持になる。まさに本書でも触れられている、ロバート・ブラウニングの詩片の境地だ。

時は春、/日は朝、
朝は七時、片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、/蝸牛枝に這ひ、
神、そらに知ろしめす。/なべて世は事も無し