ひとりでいる自由:「男おひとりさま道」上野千鶴子

男おひとりさま道

男おひとりさま道

昔はいざ知らず今は、男でも女でも死ぬときはひとり、という場合が多くなるかもしれない。たとえ結婚していても、時がたてば相手とは必ず死別するし、その前に離婚してしまうかもしれない。子供がいたとしても独立すれば親元を離れるだろう。そもそも今は非婚率が高まっているから、生涯ひとりである場合も少なくないだろう。本書の冒頭で言われるように「男もおひとりさまになる」のである。

本書は、男が老後にひとりで生ききる可能性について様々な検討を重ね、要介護になっても単身で在宅で暮らすことができ、最後は「単身で在宅で死ねる」ようになるべきだと結論する。なぜなら、施設では自由に生きられないからだ。認知症になって徘徊するようになっても単身で在宅でいられるかどうか定かではないが、自分もそのように願っている。

著者に言わせると男とは、「死ななきゃ治らないビョーキ」のようなものである。男は、弱さを人に見せることができず、カネと権力をめぐるパワーゲームに熱中する。カネと権力を獲得した男は、男の社会で認められ、パワーゲームのごほうびとして女を与えられる、というのだ。つまり男は男に選ばれることによって男となり、女も男に選ばれることによって女となる、というわけだ。単純化したモデルとしては社会の一面を示しているといえるかもしれない。定年後は、この手のパワーゲームから卒業しなさい、というのが著者のすすめである。

重要なことは、老後にひとりで自由であるためには、社会も個人も、ある程度の経済的な豊かさが必要だということだ。本書で理想としている、「単身で在宅で死ねる」ような社会をつくるためには、技術や社会基盤をもっと発展させていく必要があるだろう。端的に言えば、十分かつ持続する経済成長とその結果の適切な再分配が求められている、ということだ。社会や個人が貧しくあり続ける限り、個人の生活を家族や共同体に依存しなければならず、そのような状態は決して自由とは言えない、というのは本書で詳しく書かれているとおりである。少子化が進む中で経済を成長させるためには、定年後も要介護になる前までは何らかのかたちで働き続けることがあたり前になってくるのかもしれない。定年で会社をやめ「社縁」を離れた後に加わる、本書でいうところの「選択縁」には、別の場所で働く、という縁もあるだろう。

注意しておきたいのは、本書が言っているような「パワーゲーム」でない経済成長も十分ありうる、ということである。市場経済における経済成長は、活発な交換と分業による付加価値の増加である。これには「パワーゲーム」から連想されるような弱肉強食の競争激化だけではなく、むしろ過度な競争を避けて市場のニッチを絶えず掘り起こしていくような状況も含まれる。そして、前者のような状況は今まで続いてきたような、モノやヒトの供給が過剰となるデフレ下で生じやすく、後者は供給が不足するインフレ下で生じやすい、といえるだろう。さらに、弱肉強食のパワーゲームでない働き方をするにも、インフレが続いて人手不足気味となり、カネではなく労働者が大事にされる状態となることが望ましい。デフレ脱却後の日本社会において、パワーゲームでない働き方で男おひとりさまの老後を生きる、という未来を期待したい。

本書には、決めぜりふとでもいえるような面白い言葉が散りばめられていて、楽しい。メモがわりに書いておこう。
「子どもたちは、自分の人生の時間を、20年ばかりわくわくどきどきさせてつぶしてくれた相手だと思って、それ以上の期待をせずに感謝して送り出そう」(p201)
「学問は、自分がすっきりしたいだけの、死ぬまでの極道」(p216)
「終わるときにはいつでも中途半端なのが人生だろう」(p268)