クラシック音楽と人類の音感:「西洋音楽史」 岡田暁生

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書)

世界にはその地域、その時代に特有の様々な民族音楽がある。本書が言うところの「西洋芸術音楽」も数ある民族音楽の一種であり、現代に至るまで1000年に及ぶ長い歴史を有している。「西洋芸術音楽」の長い歴史の中で18世紀後半から20世紀前半に至る200年ほどの間に、現代では「クラシック音楽」と呼ばれている特異な一ジャンルが生まれて繁栄をきわめ、西洋のみならず世界中に広がり、日本にも伝播した。それは同時期に西洋で起こった啓蒙主義運動、これに続いた市民革命、産業革命と軌一にして生じており、本書において「クラシック音楽」は、こうした社会変革と切っても切れない関係をもつ事象として説明されている。

現代では、当たり前のように音楽教育を通して、三和音、拍子、調性(長調・単調)が教えられているが、これらは「クラシック音楽」の登場に伴って発明されたテクノロジーである。本書によれば、20世紀の前半に至るまでの間に、これらのテクノロジーがもつ可能性は徹底的に探究され開発し尽された。そして、今まで誰も聞いたことがないような音楽を、「クラシック音楽」のテクノロジーを用いて作り出し、それが同時にひろく公衆によって受け入れられるという時代は終わってしまった。20世紀後半以降、「クラシック音楽」の流れは、前衛音楽(いわゆる現代音楽)、「巨匠」による過去作品の名演、英米を中心として盛んになったポピュラー音楽(ジャズ、ロックその他)の三つに分裂して引き継がれることになった。「クラシック音楽」は、「クラシカル」(古典的)というだけではなく、現代の様々な音楽ジャンルにおいて基本となる「クラシック」(範型)として生き続けているのである。

本書を読めば、世間を騒がせた作曲家新垣隆氏が、「あの程度の楽曲であれば、現代の正規音楽教育をしっかりと受けていれば誰でも作れる(意訳)」と発言した理由がよくわかる。すぐれた現代音楽家である新垣隆氏は、19世紀ロマン派が盛んに行ったような、「大オーケストラによる大交響曲の新曲」の作曲や演奏を行うことに内心憧れていた(?)一方で、本書で述べられているような西洋音楽史の達成をふまえれば、現代ではそれが途方もなく困難であることをよく理解していた。新垣隆氏にとっては、「作曲家佐村河内守」の黒子となることによって、はじめてできることであった。ちなみに、生身の佐村河内守氏のふるまいは、本書で描かれているような19世紀ロマン派の作曲家たちのそれによく似ていた。「作曲家佐村河内守」の楽曲は、ゴーストライター新垣隆氏による単独作品ではなく、新垣隆氏と生身の佐村河内守氏の双方による真の意味での共作であったのだ。

本書を読んで浮かぶ大きな疑問は、「クラシック音楽」のテクノロジーによって作り出された様々な音楽が、現代の私たちに違和感なく聞こえ、心地よく感じられるのは、脳生理学的にそうなっていて人類にとっていわば普遍的な前提なのか、それとも現代世界を制覇するに至った西洋文化の刷り込みによる後天的な結果にすぎないのか、どちらなのか、ということだ。後者であることを願うが、そうであれば、今後まったく新しいテクノロジーの登場とともに人類の音感もまた変化していくのだろう。