国家は貧困をなくさなければならない:「ベーシック・インカム」 原田泰

本書は、日本国の財政支出は、今や国民の貧困を解消し基本的な生活を保障するために行われるべきであるとし、国民一人ひとりに対する最低所得の直接給付(ベーシック・インカム、BI)を主体とした支出形態に移行するべきだと主張している。多くの考えるべき論点に満ちた良書である。BIは、大人一人月7万円、子供一人月3万円の水準とすれば、現行の生活保護や基礎年金の廃止など大幅な支出先の組み替えを前提として、十分に現在の財政で対応できる数字であるという。そもそも今後、六十五歳以上の無年金者が続出し生活保護対象者が大幅に増えるので、現行の比較的高めの生活保護水準を維持することは(現行の、違法な「水際作戦」による受給の裁量的な制限をもっと拡大すること無しには)できなくなるのである。

本書の例では、大人一人の手取り収入はざっくりと税率を一律30%とすれば、年収x0.7 + BI84万円となる。84万円というBI給付は、現在の生活保護給付水準より約2割少ない額である。この程度であれば、ふつうの大人は定職を得て働き収入を増やしたいと考えるので、積極的な無業者が多く現れて働く人がいなくなるという心配はないだろう。さらに重要なのは、現在の、生活保護水準以下の収入で暮らす人が国民全体の13%に達しているのに、実際の生活保護を受給している人は全体の1.2%でしかない(2006年)という矛盾を解消できることだ。また、自らの仕事によって収入が増えるという明確な動機付けがあるので、現在の生活保護のように、働くと丸ごと給付がなくなり就労への動機づけが弱くなってしまうという矛盾も解消できる。しかも、まず給付ありきなので、現在の生活保護のように給付を受けること自体が社会的にスティグマとみなされてしまうことも避けられる。

本書は、BIの代替財源となる、公共事業費の一部、地方交付税交付金の一部など現行の様々な財政支出は、政府が特定の組織に富を再配分して無理やり雇用をつくりだすことに使われているという。そのような裁量的な財政支出は、それによる富の創出の正当性を疑わせてしまう。そうした裁量的な支出にかえてBIを個人個人に給付した後に、個人個人の自由な市場活動によって創出される富はまったく正当なものである。BIは、富の正当性に関する社会の合意を高め、より安定した社会をつくりだすことに寄与するだろう。それは、富者にとっても貧者にとっても、必要かつ有益なことである。一方で公共事業費は、富の再配分のためではなく、長期的な国土保全計画のもとで無駄なく有効に使われるべきなのだ。

前近代の日本社会は、農民、商店主、中小事業者など、基本的に自営業者の社会であった。そのような社会では、子供はいわば資本財であり、自営業を営む家族にとっては必要な労働力であったから経済的には再生産する強い動機が存在した。一方、近代になってから、特に高度経済成長以降の日本社会は、会社や団体などの雇用者が主体となった。雇用者の社会では、子供は家族にとって資本財というよりは消費財であり、家族にとって経済的に再生産する動機は弱くなった。しかし、将来の納税者たる子供は国家にとっては依然として資本財であり、国民の再生産がなければ国家は滅びてしまう。国民の再生産は、今や家族の義務というよりは、国家に課せられた義務なのである。BIが子供に対する給付も含んでいることにはそうした理由もある。

現代は、農村共同体、宗教団体、企業など様々な中間組織のあり方が変容し、これらが個人を保護してきた従来の役割が弱まっている。同時にこういった中間組織は個人の自由を制限してきたともいえるのだが、もしBIが実現し、国家が自動的に個人個人の生活をある程度保障するという社会になれば、個人の自由はより拡大することになる。自分はそのような方向を好ましく思う。ただし、BI実現にあたり「財源論」にとらわれてやみくもな増税の道に踏み込むようになると、子ども手当や農家の最低所得補償などをかかげて政権を担当したものの、結局まともに実現したのは経済成長を妨げる消費増税だけという結果に立ち至ったあの悪夢の繰り返しとなってしまう。本書で述べられているように、BIは「マルサスの限界」を突破した豊かな社会にのみ実現可能な政策である。BIの経済的基盤は、確実な経済成長を伴った豊かな社会であることを忘れてはならないと思う。