現代における自由と責任: 「自由のジレンマを解く」 松尾匡

前作「ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼」で、前世紀末に生じた「転換X」の意味を考察した著者は、本書において「転換X」の時代にふさわしい「自由」とそれに伴う「責任」のあり方を論じている。「転換X」とは、資本主義の発展による全世界の市場化と、それに伴う共同体固定的な人間関係から流動的な人間関係への変化のことである。「転換X」のもとでは、個人は自己決定して自由にふるまうが、自己決定の裏の責任をとる必要があり、自らの行動に伴うリスクも引き受けることになる。政府は、恣意的な決定を無責任に行うことは避け、個人の自己決定のリスクを減らすために、人々の予想を確定する事前的ルールを設定することに徹するべきだ、というのが前著の結論であった。この場合、情報からも知識からも遠ざけられた弱者がやむを得ず判断して行動した結果困難におちいった時、これを助けるべきかどうか、また、個人の自由どうしがぶつかった結果どのように調整するべきなのか、といった「自由のジレンマ」が生じる。

著者は、流動的な人間関係への変化という「転換X」を前提として、自由主義リバタリアン)の立場から、予想不可能な責任の事前補償として、福祉や貧困対策などへの所得再分配を肯定する。すべての人は自分の活動を通じて他人の自由を侵害する可能性があり、それを補償するため、他人にそうしたリスクを与える可能性の大きさに応じて税金を支払う必要がある。リスクを与える可能性の大きさは、おおむねその人の所得の大きさで測られるとみてよいだろう。大事なことは、個々人がそのように意図しなくても、行動の総和の結果として個々人の自由が妨げられるリスクが生じることである(社会的ジレンマ)。自由主義者がいうところの「消極的自由」―他人から意図的な妨げを受けない自由―を保証するだけでは、十分ではないのである。かといって、「積極的自由」―意図することを実現する自由―まで保証しようとするならば、理性による抑圧をもたらしてしまう。

著者は、自由をめぐる言説の困難を解きほぐすために、生身の個人と、行動原理を実現しようと動く個人、とを分けて考えることを提案する。生身の個人は、より良い厚生を求めて様々な行動原理を試す自由があり、そこに責任は生じない。一方、行動原理を実現しようとする個人は、自由にそれを行うことができるが、自他を含む生身の個人による選択の結果を受け入れるという責任が生じる。ただし、自殺や薬物、あるいは様々な虐待に至る行動原理などは、それに基づいて行動してしまうと以後、生身の個人が別の行動原理を選択することが二度とできなくなるという意味で認められない。著者は、「培地」=「生身の個人」と、「ウイルス」=「行動原理を実現しようとする個人」、の比喩を使ってこれらのことを説明している。

「転換X」は不可避的なものであると思う。これを積極的に受け入れたうえで、新たな自由と責任の考え方を示そうとする本書の議論はたいへん刺激的であり、基本的には共感できる。一方で、「転換X」に対抗する様々な動きが必然的に現われることも示唆されており、今後、時代の混乱はいっそう深まりそうな予感もする。これからの政府のあり方とされる基準政府にしても、世界全体が市場経済によって覆われんとする現状を考えれば、世界政府に向かうのが自然であろうが、基準政府による典型的な経済政策とされるインフレ目標(マクロ金融政策)は、対象範囲が限られる最適通貨圏を前提としているのではないだろうか。またもうひとつの典型的政策とされるベーシックインカム(マクロ財政政策)は、国民国家による同胞助け合い原理以外によって正当化されうるものだろうか(「ベーシック・インカム」参照)。国民国家を統合する基準政府といえそうな欧州連合が現在直面している難民問題やギリシャ問題を考えると、なかなか一筋縄ではいきそうもないと思われる。