明治維新のもうひとつの目標であった「公議與論」:「未完の明治維新」 坂野潤治

未完の明治維新 (ちくま新書)

未完の明治維新 (ちくま新書)

いわゆる幕末も押しつまった1867年(慶応3年)には、江戸幕府を代表する徳川宗家を引き継いだ徳川慶喜でさえも、いままでの幕藩体制では立ち行かないことを理解しており、「富国強兵」を目指した国家体制の変革を視野に入れていた。だからこそ、その年の10月に徳川慶喜は朝廷に将軍職を返上「大政奉還」し、幕府にかわる新政府の設立を意図したのである。これに対し、薩摩・長州をはじめとする諸藩の武士たちは「王政復古」クーデタを断行し鳥羽伏見の内戦で旧幕府軍を撃破することによって、徳川家主導ではない新政府を樹立した。

今までは、いわゆる「討幕」を目指す薩摩・長州を中心とする諸藩の武士たちの意図がなかなか理解できなかった。彼らが、新政府からなぜ徳川家を排除する必要があったのか、ということである。本書を読むと、その理由は、明治維新には「富国強兵」に加え「公議與論」というもうひとつの政治目標があったからだ、と理解されるのである。具体的には、欧米列強諸国からの兵庫開港要求に対して、その要求に屈するように幕府のみの独断で開港するのか、それとも全国の武士たちの総意を結集するべく武士議会をひらき(公議與論)、その総意のもとに堂々と開港するのか、という争点が問われていた。結局、幕府は武士議会をひらくこともなく独断で開港してしまい、これは諸藩の武士たちにとって到底受け入れられない結果だったのである。

その後の明治維新の推移は、「富国」と「強兵」が国家目標の優先順位としては分離し、「公議與論」(議会開設)に加え「立憲」というもうひとつの目標を加えた四つの課題の実現をめぐる各武士勢力の提携と対立としてとらえることができる。たとえば、いわゆる「征韓論」による政府の分裂とそれに続く西南戦争への動きは、その後の台湾出兵に関わる日中戦争勃発の危機とその回避、それに伴って生じた「強兵」派の弱体化としてとらえるほうがわかりやすい。西南戦争後は、「強兵」派の弱体化によって「富国」派が勢いを増したかにみえたが、西南戦争への対応として行った地租減税と、戦費増大によって生じたインフレによって政府財政が悪化したため、その命脈を絶たれてしまう。「議会」派と「立憲」派は、明治14年(1881年)に出た国会開設の詔でいちおうの目標を達成する。これによって武士勢力が担った明治維新はひとつの区切りを迎え、その後は政府の官僚が実務的に政策を実行していく時代となる。議会勢力にも本格的に農民が加わり、体制変革よりは減税など実利を求めて政治に参画しようとしていく。

こうした著者の見方は図式的でわかりやすく、明治維新の意義を、はっきりと武士が担った近代化革命として理解できる。歴史の推移は過酷であり、武士たちが掲げた国家目標はその時点で達成することはかなわず、彼らにとっては永遠に未完のものとなった。しかしそれによって明治維新の意義が損なわれるということは決して無いのであり、むしろそのこと自体が、後世に歴史を学ぶ者にとっては強烈な魅力、あるいはある種の感傷をもって感じられてしまう。

「富国強兵」と言い、「公議與論」と言い、「平和と民主主義」と言い、スローガンの持つ意味とその重さとは時代毎に違うのである。その意味で、西郷と木戸と大久保と板垣の「明治維新」は、彼らにとっては永遠に「未完」のものだったのである。
(本書、p242)