歴史の偶然: 「鳥羽伏見の戦い」 野口武彦

鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間 (中公新書)

鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間 (中公新書)

明治維新における、薩摩・長州藩を中心とする討幕勢力の権力奪取は、最終的には鳥羽伏見の戦い旧幕府軍を相手に軍事的勝利を得ることによってなされたのだが、果たしてそれは必然であったのか、と本書は問う。そうではない、たった四日間の鳥羽伏見の戦いにおいても、旧幕府軍が勝利する機会はいくつもあったのだ、ということが本書を読むことによって実感される。

ひとつ驚いたのは、当時、最新式であった元込め銃(シャスポー銃)を装備した精鋭部隊(伝習隊)を有していたのは旧幕府軍であって、薩摩・長州側は先込め銃によるやや旧式の装備が主流であったということだ。さらに、交戦勢力としても旧幕府軍は、討幕勢力の数千に比べ、一万規模の人数をそろえていた。

旧幕府軍としては、京都へ進入し軍事的な圧力をかけて朝廷を掌握することが元々の目標で、討幕軍と正面から軍事衝突するということは考えていなかったようである。これに対し、討幕軍は数的な劣勢は承知の上で、正面から軍事的に対決することを覚悟していた。そのうえで、本書は、旧幕府軍が討幕勢力の防衛線を突破して京都に進入しうる機会は、最低でも三回あったと指摘している(本書p143、p179、p186)。その意味で、鳥羽伏見の戦いで討幕勢力が勝利したのは、ほとんど偶然の結果であったのかもしれないと考えられる。

鳥羽伏見における軍事の結果は偶然であったかもしれないが、その波及結果はきわめて劇的なものであり、旧幕府軍の首領であった徳川慶喜大阪城からの逃亡、江戸での全面恭順という展開をたどることになった。これに関して本書は、

慶喜という政治家には、頭脳明晰・言語明瞭・音吐朗々と三拍子揃っていながら、惜しむらくは、ただ一つ肉体的勇気が欠けていた ... 。「主君を刃にかけてでも討薩する」と息巻く主戦派家臣であれ、慶喜追討を叫んで大阪城に迫ってくる官軍であれ、現に眼の前にある強そうな相手に弱いのだ。一陣の臆病風が歴史の流向を変えたのである。(p272-273)

と、徳川慶喜という興味深い人物の振る舞いがもたらした、歴史的帰結の大きさについて強調している。とくに本書は、ここで徳川慶喜が失脚しなければ、その後の「大日本帝国」のあり方は変わっていたかもしれないとまで説くが、果たしてどうであったのだろうか。ともあれ、歴史をふりかえるにあたっては、その時起きた事象がさも必然であったかようにしばしば錯覚してしまうが、偶然が果たすおおきな役割を無視することはできないのである。