中国「古典国制」のはじまり:「中華の成立」渡辺信一郎

 

中華の成立: 唐代まで (岩波新書)

中華の成立: 唐代まで (岩波新書)

 

二千年まえに漢王朝を簒奪した王莽は、儒学に基づいて今日までに至る「中華帝国」の模範となる国制を形作り、これはその後「漢魏の法」として完成された。本書の著者はこれを中国の「古典国制」と呼んでいる。「古典国制」は、一人の皇帝が残りの人々すべてを支配する体制である。もともと紀元前3-4世紀に中国華北で確立した、農民の小家族が政府から給付された田畑を耕し生計をたてるとともに、建前として皆が等しく租税、賦役、兵役をまかなうという社会(「耕戦の士」)が基盤となっていた。

「古典国制」と「耕戦の士」の社会は、4世紀に戦乱で華北が荒廃し漢人華北から逃散したためいったん崩壊するが、代わりに移住してきた北方遊牧民と残った漢人の融合により再建される。隋唐帝国の時代である。

唐帝国時代の半ばで「耕戦の士」は名実ともに維持することができなくなり、貧富の格差と兵農分離を前提とした社会に移行していく。これが「唐宋変革」の内実であることが、第二巻を合わせ読むとよくわかるようになっている。また、続けて第三巻を読むと唐帝国の領域拡大は伝統的な「耕戦の士」によるものではなく、北方遊牧民の戦力によるものであったことがわかってくる。また現代に至るまで「古典国制」への指向が形を変え品を変えて政治史に現れてくる様子が岩波新書「中国の歴史」シリーズの各巻で描かれている。本巻がこのシリーズの最初にある意味は、後の巻を読めば読むほどわかってくるように思う。

「戦時体制」のグダグダ:「アジア・太平洋戦争」吉田裕

 現在の「緊急事態」と「戦時体制」を比べる議論がネットでもよくみられるようになった。「戦時体制」とはあの日中戦争、太平洋戦争の頃の日本の社会体制のことである。本書は、日中戦争の拡大発展として太平洋戦争をとらえ「アジア・太平洋戦争」(1941-1945)と呼んでいる。

本書を読む限り、この戦争の政治指導は最初から最後まで「グダグダ」であったとしか言いようがない。まず前提として、日中戦争の長期化で国内はすでに「戦時体制」に入っており、陸海軍の政治的発言力と予算は拡大を続けていた。陸軍は日中戦争を口実に対ソ戦(これは本気)の準備としての軍備拡張を続けており、海軍も負けじと対米戦争(これは本気でない)への備えを口実に軍備を拡張していた。著者が言う「制度化されたセクショナリズム」(p41、本書)が暴走を続けていた。

後からふりかえってみると、日中戦争を打開するために行った東南アジアへの武力進出が致命的だった。東南アジアへの武力進出は当地のイギリスの権益とまっこうから衝突するものであり、対英戦争は不可避となる。こうなるとアメリカがどう出るかが問題だったが、アメリカの姿勢は予想を超えて強硬であり、陸海軍含め皆が無謀であるとわかっていたのに対米戦争にも突入することになった。

日中戦争開始以来の軍備拡張によって太平洋における見た目の軍事バランスは英米を上回っており、短期決戦への誘惑をふりきることができなかったようである。議会や、新聞などのマスメディアも日中戦争以降の「戦時体制」の気運に煽られ、英米と妥協することが難しい雰囲気であったことも対英米戦争回避を困難にした。

この戦争はマリアナ諸島の失陥という戦局の転換により戦争終結を目的とする政治勢力が結集することで終わりを迎えることになるが、それから実際に戦争を終わらせるのに1年以上かかっている。いったんできてしまった「戦時体制」を終わらせるのはとても難しい。恐ろしいことにこの戦争による死者の多くは戦争を終結させるまでの1年あまりで生じてしまった。しかも戦闘そのものによる死よりも、餓死や病死のほうが多いのだ。やりきれない気持ちになる。

さて現代の日本に生まれた、新型コロナウィルスに対する「戦時体制」はどのように終わっていくのだろうか。決定的な「戦局」の転換があってもずるずる続くような、いやな予感がする。ワクチンをめぐる外交攻勢が活発になるなど、すでに「戦後」に向けた各国の動きが生まれているが、また今回負けてしまうのだろうか。

新説から浮き出てくる新たな人物像の魅力:「新説の日本史」河内春人・亀田俊和・矢部健太郎・高尾善希・町田明広・舟橋正真

 

歴史研究の最前線でいま活躍している研究者たちによる様々な「新説」の楽しい展覧会である。新しい史料を発見する、あるいは従来の史料の解釈を検討することで従来の説を批判的にとらえることで新説が生みだされ、またそれ自体批判的に検討されていく。本書からそうした活き活きとした研究現場の様子が見えてくる。

のっけから「倭の五王記紀天皇に対応できない」と書かれていて驚かされる。古代から近現代まで、様々な話題がわかりやすく解説されて面白く読める。

歴史を振り返るとき、結果がこうだったから原因はあれであったに違いないという先入観にとらわれることが多い。本書を読むとプロの歴史家たちもそのような先入観から必ずしも自由ではないと考えさせられる。

本書では、薩長同盟は初めから軍事同盟であった、関ヶ原の戦いは徳川家にとって「天下分け目」の決戦であった、豊臣秀次は嫡子となる秀頼が生まれたために秀吉にとって邪魔になったのだ、など様々な「先入観」が検討されている。これらに対してはいずれも興味深い新説が示されている。様々な話題の中に共通して見えてくるのは、歴史は偶然の出来事の連続であり「結果ありき」ではなく、目まぐるしい情勢変化の渦中で判断に必要な情報が不足するうちに登場人物たちがその都度決断していったことの積み重ねであるということだ。

様々な新説のなかから浮き出てくる新たな人物像が魅力的である。たとえば平城天皇足利義詮徳川家康岩瀬忠震昭和天皇。皆、周囲の情勢に振り回されながらも明確な政治的意図をもって能動的に行動していた様子がうかがえる。現代の歴史小説家たちにとって格好の素材となればと期待する。

先行きは明るい:「新型コロナの科学」黒木登志夫

 

新型コロナウィルス感染症についてまとまった知識を得るためにぴったりの一冊である。参考文献も多く載っていて便利である。本書を読むと、流行が始まってかなりの時間がたち、この感染症について相当いろいろなことがわかってきたと思う。

新型コロナウィルスは以前流行したSARSやMERSと似たウイルスだが、毒性はそれほど強くなく感染しても8割が無症状あるいは軽症で推移する。この点がSARSやMERSに比べて世界的流行となった最大の原因である。残りの2割は肺炎症状を示しさらに数パーセントが人工呼吸を必要とする重症に移行する。重症化のリスクは、男性、高齢、肥満、基礎疾患持ちであれば高くなることがわかっている。

感染ルートは飛沫感染接触感染が主なものであり、このため「三密」環境を避けてマスクと手洗いすることが有効な感染対策となる。軽症の治療薬はウイルスの増殖を直接防ぐような決定的なものが無いので、これがインフルエンザとの大きな違いとなっている。重症になった場合は炎症つまり免疫の暴走を止めるという観点からいくつか有効な治療薬が出てきている。重症に関しては1年の経験を経てある程度治療法が確立してきたようで、致死率は5%から1-2%まで低下してきた。最新鋭のワクチン技術により遺伝子情報をもとに迅速にワクチンが設計、製造できるようになったことは大きな進歩であり。現在は世界中でワクチン投与が始まっている。

感染は1年以上前に武漢周辺から広がった。ウィルスはコウモリ由来である。武漢ウイルス研究所では緩い隔離レベル(BSL2)でコウモリのコロナウィルスが研究されていたことは事実である。日本では2020年2月に武漢由来のウィルス流行が収まったが、3月に入りもっと感染力の強いヨーロッパ型のウィルスが流入しその後変異を繰り返して流行を拡大させた。ただ、欧米に比べ、ロックダウンのような厳しい政策をとっていないにも関わらず感染者数も死者数も格段に少なく、主に遺伝的要因の可能性が指摘されている。

 と、ここまで本書は多くのデータを整理し今わかっていることを手際よくまとめている。最終章は「そして共生の未来へ」として今後の展望について触れている。ウィルスと「共生するための医療システム」として「病院と介護施設の患者と職員への院内感染対策が重要」であり、その基本は「定期的なPCR検査」であるという。これまでに明らかになったウィルスの特徴をふまえればこうしたピンポイントの対策は効果的だと思う。

さらにウィルスと共存し、経済を回すためには「すべての人がPCR検査を受けられるようにすることである」という。これについてはPCR検査が、偽陰性となる確率が25%、偽陽性となる確率が0.8%となる特性をもっていると考えると、どうかと思う。陰性確認を目的とした、社会の安心と安心のための大規模なPCR検査はかえって混乱を招くと思う。

あとは、「感染症と経済への対策は両立できる」としてGDPの減少と死者数の関係(図13-1, 本書p294)を論じ、「コロナをコントロールできない国は、経済の痛みも大きい」とする。現在、国内の製造業はほぼコロナ前の水準に戻っており、供給という観点からみればインフレになるような懸念もなく、あとはサービス業の復活を待つばかりとなっている。今のうちに「共生するための医療システム」を整えコロナをコントロールして需要が出てくれば、サービス業も復活してくるだろう。最近の株価の上昇も今後の楽観的な予想があってのことではないかと思う。逆に言うと、増税など需要を減らすような経済政策はとても危険だ。 

 

史料が拓いた近現代史学の転換:「歴史と私」伊藤隆

 

 いまから半世紀以上前、国内の歴史学とりわけ近現代史は、皇国史観、そしてマルクス主義史観の影響を強く受けていたが、本書の著者である伊藤隆氏をはじめとする多くの歴史学者の努力によって、多角的な史料の分析に基づく実証的な学問になったと言ってよいと思う。

本書でもっとも興味をひかれるのは、昭和ファシズム論争(第5章)から近衛新体制の実態(第6章)、戦前・戦中・戦後の政治史の連続性(第7章)について触れているところだ。満州事変(1931年)、日中戦争(1937-1941)、アジア・太平洋戦争(1941-1945)に至る15年間の日本の政治が「ファシズム」勢力に支配されていたという考え方がかつてあった。

 1970年代以降、伊藤隆氏をはじめとする研究者たちが史料から明らかにしたことは少なくとも1937年の日中戦争に至る前までは右派も左派も含む多様な政治勢力が主導権を求めて活発に動いていたという事実である。1937年に日中戦争が起こると一気に戦時体制に突入し状況は一変する。その後危機を打開すべく「新体制運動」が起きるがこれについて伊藤隆氏が明らかにしたのは、「ファシズム」を党による国家の支配、政治による経済の支配を中核とする新しい体制を目指す、別な言葉でいえば全体主義を意味するものであったとするならば、それに最も近いものをめざしたのは新体制運動を推進した「革新」派であった」(本書、P117)ことだった。

結局、新体制運動は挫折し日本で「ファシズム」が確立することはなかった。新体制運動を推進した近衛文麿は、戦争が進むにつれて「革新」派の正体に気づき1945年2月の「近衛上奏文」によって「「革新」派に利用された自分の不明を恥じ、「革新」派は共産主義者(赤)であり、彼らこそが世界を共産主義化するために戦争をここまで引っ張ってきたと自己批判する」(p124)。「革新」派の流れは戦後も続き、戦後の社会経済体制に影響を及ぼし、「革新」政党とよばれた政党の運動にもつながっていく。 伊藤隆氏の研究人生は共産主義への対峙としてはじまったが、ソ連の消滅(1990年)、日本共産党の規約変更(2000年)に至って一区切りを迎えることになったと述懐している(p140)。

今まで、板野潤治氏、加藤陽子氏、雨宮昭一氏の著作を読むことで戦争前後の国内政治に対する新たな理解を得られていたように感じていたが、本書を読むと伊藤隆氏が彼らの研究人生と深い関わりを持っていたことがうかがえて興味深い。

現在の日本史教科書の記載をみても戦前の新体制運動のありかたについて伊藤隆氏らの研究成果が定説になっているといえそうだ。

「一国一党は天皇統治権に抵触するという批判が強まったため、大政翼賛会は政治には関与せず、戦争や経済統制などの国策に、全国民が協力するようはたらきかける上意下達の機関と位置づけられた。」(新選日本史B 東京書籍 2018年検定済)

気になるのは本書で伊藤隆氏も注意しているように日本社会における「戦時体制イコールファシズムではない」(p117)のあり方である。今日の新型コロナウィルス流行への対応もかつての「戦時体制」のように、あまりに多くの社会制度・慣習が深い思慮なく機械的に変更されていくことのように思えてならない。

 

いなくなる女たち:「雪の降るまで」田辺聖子

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

ジョゼと虎と魚たち (角川文庫)

 

 

女のいない男たち (文春文庫)

女のいない男たち (文春文庫)

 

 村上春樹の短編集、「女のいない男たち」を読んだ。女がいなくなる男たちの心持ちはよくわかる。ここで言う「女」は、男たちの持つある種のファンタジーである。ときにこのファンタジーが、眼前の女性たちと関係しているようにみえるのは不思議なことであり、これが物語の中で様々な波紋をひきおこすことになる。男たちが眼前の女たちに見ているのは実はファンタジーであるからこそ、実際の女たち、あるいは女たちに投影していたファンタジーは容易に消えてしまうのだ。

一方で、いなくなるほうの女たちの視点で凄い話を書いているのが本書の著者田辺聖子である。本書には、いなくなってしまう女たちの秘密を垣間見せてくれる話がいくつもある。表題作の主人公ジョゼも、いついなくなってもいいような覚悟をしている女たちの一人である。

もっとも凄みのある話は末尾にある「雪の降るまで」である。主人公の女性は、本質的には完全に一人で生きる覚悟も準備もしていてなおかつ「(七十、八十まで遊びたい)」(本書、p239)と思いきっているのである。男と会っても常に「会う片端から前世のように遠い過去になる」(p258)のである。相手の男もそれなりに経験の深い人物で、「あんたはいつも、「つづき」にならへんのやなあ。」(p246)とそのあたりは見切っているようだが、実際に突然いなくなってしまったら彼はどうなるのだろう、という怖ろしさが感じられる。田辺聖子は、さらりと書いているようでいながら鋭く突き刺さり、容易には理解しがたい話を他にいくつも遺している。畏怖するべき小説家である。 

とても現代的なスペースオペラ:「シンギュラリティ・トラップ」デニス・E・テイラー

 

 最近出版された宇宙SFの中であまりに大部でなく一冊でまとまった長編を探していたところ、ちょうどよい本書が見つかった。著者が言っているように、スペースオペラであり、先に続く展開への興味に任せて最後まで楽しく読める。何となく中盤で中だるみがあるような気もするがそこまで読み進めてしまえば、クライマックスの終盤まであっという間である。

物語の舞台は21世紀末の太陽系であり、人類起源の温暖化ガス排出が元となって生じた温暖化による気候変化が地球環境を劇的に変えてしまっている。読んでいて物語で展開されるスペクタクルは楽しいが、読後感は複雑である。気候変化にせよ、核戦争に代表されるような原子力災害の危機にせよ、科学技術文明の発達にとって惑星環境の脆弱さと不安定さは致命的であり、そのままでは必ず限界に突き当たってしまうという認識が作品世界の背後にある。そしてこの限界を突破することが、そのままポストヒューマンへの変貌(進化、とは言わない)につながるという展望がいかにも現代のSFらしい。

ところで、地球温暖化による影響を最小限にするつまり気温上昇を1.5度c以下におさえるためにパリ協定が結ばれ、日本も批准している。パリ協定というのはなかなか強烈で、下の図にみえるように、たった30年後の2050年には二酸化炭素の排出をゼロにして、以後は放出をしないようにするというとても野心的な計画なのだ。新型感染症に伴う自粛などあまりに甘くみえるような社会の変容を迫られているのである。最近つとに耳にするようになったガソリン車の新車販売禁止などの動きもこれに沿ったものだ。

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アメリカの次期大統領バイデン氏を支持している人々は本書の著者と同様に地球温暖化に対する強烈な危機感を共有し、二酸化炭素排出を削減するべく「グリーン・ニューディール」というある種の過激な社会変革を推進しようとしている。対するトランプ氏を支持する人々にとっては到底受け入れられないものであり、この点でのアメリカ社会の分断も深いと思う。

このような背景のもとで読み返してみると、本書はスペースオペラと称しながらも科学技術文明と人類の未来について強烈なメッセージを伝えていると感じられてしまう。